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2011年5月16日 (月)

宗教改革の意義

「赦しの中に聖化への力が含まれ、赦したが故に聖化するというのが、福音主義的理解である。然るにさきに見た如く、カトリック主義に於ては逆に、聖化したが故に赦すのである。宗教改革の意義はこの微妙なる相違に対して感覚をもてる者にとってのみ、理解されるであろう」(『神の痛みの神学』北森嘉蔵著)

この記述によれば、カトリック主義とは半ペラギウス主義、神人協力説のように思える。そのように理解しているカトリック者もいると思う。

しかし、ここで「赦し」といわれているのは、新生に関係していることであり、それは洗礼に関係している。しかし、カトリック主義が、その歩みの中で、過去の事柄としての洗礼を追い求めているのだとは思われない。聖霊降臨日を誕生日としている教会は、その誕生日を未来に期待することはできない。ただ、未来に、将来に目を向けている姿勢は、それ自身としては正しいことであろうが、その目が再臨に向けられているかといえば、それは弱いと思う。もちろん、再臨は語られてはいる。

ただ、中世の国教体制や事効論理解の中で、洗礼の意義があいまいになっていったという現実があるかも知れない。その意味では、宗教改革は「洗礼を問う」という一面もあったのだと思う。

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