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2011年5月24日 (火)

大いなる信仰の遺産

思えば、教会というものは新約聖書において既に存在している。既に、いろいろな教会があった。さまざまな意見もあった。その中で、現在も課題である教会一致運動における、一つの教会を求める理念と方法は何なのだろうか。

内村鑑三と共に賀川豊彦の信仰の遺産にも、そのヒントがあるかも知れない。

内村については、再臨信仰の継承を思う。それは聖化をさらに前進させるものでもある。しかし、最近の話題になっているその日を特定して、待つということではない。内村は、そのようなことをしなかったし、否定している。

そして、賀川については何を継承すべきなのか。それは、彼の提唱した神の国運動かと思う。教会は、現在は教派として存在している。しかし、教派主義には弊害があり、また限界もある。その時、「神の国」はそれらを包括し、超えるものとして浮かび上がってくる。

アウグスチヌスの『神の国』は、地の国と神の国との二つの原理による歴史を叙述する。その神の国と教会との関係はどうなのか。神の国は教会を超えるものを持っているのではないだろうか。教会が「道具」と言われるのは、神の国を目的にしているのではないだろうか。諸教会の人々は、その神の国においては、協力できるのではないだろうか。

内村鑑三における再臨信仰、賀川豊彦における神の国運動の二つを思う時、それらは今のキリスト者に与えられている大いなる信仰の遺産であろうと思う。

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