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2011年5月15日 (日)

法然と親鸞

日本仏教の宗教改革というと法然を思う。称名念仏の発見・提唱は、ルターの信仰義認の再発見に似ている。再発見というのは、パウロに次いでという意味である。あるいは、その間にアウグスチヌスがいるかも知れない。

法然の次には親鸞が出た。ルターのあとにはカルビンが出た。この系譜にも、何か類似が見えそうである。

ルターの場合、信仰義認は行為義認とは対立していた。行為ではなく信仰という見方であり、信仰が行為になるという発想はなかったのではないだろうか。しかし、その後、「信仰という行為」といった見方も、教会の歴史の中では見受けられる。内村鑑三の文章の中にも、そんな個所があった。

親鸞は絶対他力の言葉でも知られている。そこでは、念仏を唱える行為もまた、必要ないといった見方もなされている。しかし、法然においては、念仏を唱える行為は、必要であったのだろう。それは行為とも見られるが、誰にでもできる行為という意味で、自力救済主義とは厳しく対立していたのであろう。

しかし、親鸞においては、こちら側の行為ではなく、あくまで、阿弥陀仏の本願に焦点をあてている。それは、信仰という「行為」が救いの「条件」といった理解ではなく、神の定め、予定が救いの根拠といったカルビンの予定説の考え方に近いものを感じさせるのである。

法然と親鸞、ルターとカルビン、この対比をしてみたら、あるいは興味深い発見があるかもしれない。あるいは、既に、そんな指摘があるかも知れない。

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