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2011年5月25日 (水)

原罪の解釈

昔、出隆著『哲学以前』という本があって、読んだことがある。聖書の創世記にあるアダムとイブの原罪に触れて、著者は、肯定的に捉えていることに、何か違和感を覚えた。

しかし、インマヌエル・カントも、そんな肯定的な見解であった。

「人間が、理性により人類の最初の居所として指示されたところの楽園から出ていったということは、単なるあんよ車を棄てて理性の指導へ、約言すれば自然の後見を脱して自由の状態へ移行したことにほかならない--これが人類の最初の歴史に関する如上の解釈の要旨である」
(「人類の歴史の臆測的起源」インマヌエル・カント著)

しかし、信仰の立場では、原罪はない方がよかった。そんな解釈はないのだろうか。それはある。

「神が制限を与えることによって目的としておられたことは、まったくの恩恵としてであって、人間が人間存在の最も高い可能性へと発展することができる唯一の場所の中に人間を留めておくために、計画されたものであった。ところが悪魔は、神が人間の意志に制限を加えられたのは神の側の願いによるもので、人間の能力が進歩し、発展することをふせぐためのものであると人間に教えた」(「キリストの危機」キャンベル・モルガン著)

原罪によって、その結果として、人間の能力は進歩し、発展する、という理解。これは、あるいは今でも通用しているのではないだろうか。キリスト者においても、こんなサタンの教えを受け入れている場合もあるかも知れない。

原罪がない状態であっても、人間の能力は向上するとモルガンはいう。

我々は、カントと同様に、原罪の意義を肯定する理解を持っていたのではないだろうか。人類の歴史は原罪のあとであろう。原罪がない場合、人類の歴史は、どうなのであろうか。人間の能力は向上したのであろうか。

原罪から人類の歴史が始まったと考えれば、原罪のなかった場合は、どうなっていたか、それは誰にも分からないのではないか。モルガンの解釈も、ただ、神への信頼の上でのことであり、検証はできないであろう。

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