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2011年5月22日 (日)

悟りと新生

釈迦の転機は悟りであった。そして、その悟りの説明をして、仏教が生まれた。その時、「悟った」「悟った」と言い続けても、人々には何のことか分からなかったであろう。仏教では、悟りは、いろいろと説明され続けている。
一方、キリスト教は、どうだろうか。仏教の悟りに対応するものをキリスト教に求めるとしたら、それは何であろうか。それは救いであり、新生ではないだろうか。しかし、キリスト教では、その救い、新生をどう説明しているのだろうか。体験を語って証しという。しかし、救い、新生の内容を詳しく説明するという伝統があったであろうか。

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コメント

『悟るまでは蓮の花、悟れば蓮の葉』と言う仏教の成句があったように思う。長い重苦しい期間の後、一瞬世界が輝く。輝きは次第に薄れ平凡な日常が戻る。偶に『そうか!』が意識に浮き上がる、そして忘れる。創世紀の冒頭に言う『神の霊が水の面を覆っていた・・・それは今も、じゃないか?』、『そうかい売上が少なかったの!?それもいい』。窓から木の葉のざわめきが見える、『そうだ、物理的には重力の場、でも世界は神霊の場、生きるもよし、死ぬるもよし』などと。新生??悟り??それとも老成??わからないなあ。『随他去』『随所に主となる』矛盾する言葉であるがどちらも本当。釈尊の心境かもしれない。覚者イエスはそんなことを言ったのじゃやないか?それを後世『道徳律にすり替えたんじゃないか?』

投稿: 高橋晃清 | 2011年5月24日 (火) 13時30分

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