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2011年6月26日 (日)

猛暑到来

人類の 欲望過多を いましめん 自然の怒り 暑き日々かな

猛暑来て まだ暮れぬ日に 涼風を 受ける幸せ 地獄に仏

曇り空 心は暗く 身は歓喜 きのうは猛暑 一休みかな

強風が 狂ったように 吹いている 何か怒りを ぶつけるように

緑陰の ベンチに寝つつ 風感じ 空気おいしく 夏もよきかな

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2011年6月24日 (金)

この名

「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4・12)

「この人による以外に救はない」とは、ペテロの言葉です。宗教的排他主義の根拠とも言える言葉です。

ところで、救いのとらえ方に関して、宗教的排他主義、宗教的包括主義、宗教的多元主義があります。どういう関係になっているのでしょうか。

宗教的包括主義とは、宗教的排他主義と同根です。ということは、「この人による以外に救はない」にのっとっているということです。その違いは排他主義が肯定神学的アプローチであるのに対し、包括主義は否定神学的アプローチをとる点のように思われます。

宗教的排他主義と宗教的包括主義との違いは、原理主義者と福音主義者(福音派)との態度の違いに類似しているようにも思います。

ところで、原理主義という言葉はイスラム原理主義で知られるようになりましたが、英語では、ファンダメンタリズムです。キリスト教の場合、以前は根本主義という訳語で、この訳語を導入したのは、それに批判的な植村正久牧師だったようです。

「この人による以外に救はない」は、キリスト者であれば、みな同意するでしょうが、同じような言葉に、「教会の外に救いなし」があります。こちらはキプリアヌスの言葉です。しかし、今、そう言う人はいないでしょう。あえて、同じように言うとしたら、「神の国の外に救いなし」でしょうか。

ところで、無千年王国の主張で、アウグスチヌスは、教会の権威を高めたと思います。しかし、一方、二つの国の対立による歴史観で、教会を「道具」と見る見方にも理解を持っていたかも知れません。神の国は教会とだぶってはいても同一ではないからです。そして、この二つの見方を表明しているのが『神の国』です。

教会と神の国、この二つの関係を見ていく中に、キリスト者の前進があるように思われます。

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複数里親制度

大震災後、絆という言葉に関心が集まっている。縁と言ってもいい。地縁、血縁などの言葉がある。信縁という言葉があってもいいかも知れない。イエスは信縁のため、血縁の絆を離れよ、と、ある人々には求められているのかも知れない。

それにしても、従来の絆が切られて、新しい絆を必要としている人たちがいるのかも知れない。先日のテレビで、こんな少女の紹介があった。

両親が離婚し、母と祖母と三人で暮らしていた小学生の女の子。稼ぎがしらの母を津波で失い、祖母との二人暮らしになってしまった。還暦を迎えた祖母であれば、働いて収入を得るのも難しいのではないだろうか。少女は、これからどのように生きていくのだろう。心細さの中で何かをつかんで欲しい。

それと同時に、里親制度を考えてもいいのではないだろうか。大震災で被災し、両親とも失った孤児は、どれくらいいるのだろうか。その子たちを支援したいと思う人は多いと思う。方法は、里親を募集して、物心両面を支援する制度を作ればよい。里親は一人の孤児に対して複数可能として、複数里親制度にすればよい。

地縁、血縁のほかに新しい縁、新しい絆が必要とされているのではないだろうか。

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2011年6月20日 (月)

煉獄

『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎・大澤真幸、講談社現代新書)の中で、対談者の一人、橋爪氏は「宗教改革のあと、いろいろ批判されて、…煉獄とか免罪符とかの教義はすべてなくなったんだけど、」(293ページ)と、カトリック教会の現状を説明しています。しかし、煉獄の教えはなくなっていないと思います。

煉獄については、『カトリック要理』(昭和47年)第一部第十四課「死と死後のこと」の中に、練獄(煉獄とは字が違う)が出てきます。だから、煉獄の教義はなくなっていないでしょう。

煉獄では何をするのか。それは「きよめ」と言われています。「天国の幸いを受ける前、心の汚れを完全にきよめ、残された償いを果たすことです」とあります。

ここで、注意したいのは、「天国の幸いを受ける前」という部分です。というのは、煉獄は永続するものではなく、ここに来た魂はやがて天国に行くという理解が、ここにあります。煉獄に来て、地獄に行くという選択はないということです。ということは、天国か地獄かは、この地上で決まるということを意味します。

このように読むのであれば、ここには米国の大覚醒を生んだ意識に直結するものが隠されているように思います。これを知って、私は、少し驚きました。

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2011年6月17日 (金)

吉満義彦の連載

現在、注目されている評論家の若松英輔さんが季刊『三田文学』に吉満義彦の連載をしていて、既に2回、掲載されている。

若松さんは『三田文学』に、「須賀敦子の足跡--異端者の信仰とその祈願」、「小林秀雄と井筒俊彦--神秘的人間とその系譜」、「越知保夫とその時代 求道の文学」、「井筒俊彦--東洋への道程」などの作品を発表されている。若松さんがカトリックかどうか知らないが、須賀敦子さんについての評論はカトリックでも、なかなか書けない力作だと思う。

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2011年6月15日 (水)

親鸞没後750年

今年は親鸞の没後750年にあたる。書店には、山折哲雄さんの『法然と親鸞』というタイトルの本があった。また、6月15日(水)午後10時からは、NHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」で、法然と親鸞がテーマになっている。『文芸春秋』7月号でも、「親鸞に学ぶ生と死」で、大谷暢順、野村萬斎両氏の対談がある。

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2011年6月14日 (火)

菅首相の選択

ふざけるな! 退陣せよは 責任放棄

菅首相は東京電力に乗り込んで、福島原発からの撤退を責任放棄と叱ったことを思い、今、退陣できないのかも知れません。しかし、退陣して野党協力体制をつくることこそ、責任の取り方という考え方もあります。野党も、本当は、この時期、何かをしたくてたまらないのかも知れません。しかし、内閣不信任案を出したことで、引っ込みがつかず、菅体制の退陣が前提という立場を変えることができないのかも知れません。

今、菅首相が責任放棄しない時、次の政治の選択は何かと考えてしまいます。

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2011年6月12日 (日)

綱島梁川の墓

Rimg0306 ケーベル先生の墓参で、雑司ヶ谷霊園に行った。1種1号の中に、綱島梁川の墓を見つけた。「梁川綱島榮一郎之墓」と刻まれていて、左側には、「綱島家之墓」があった(写真)。

綱島梁川(1873-1907)は明治時代の評論家で、「見神の実験」という言葉で知られ、その神体験の記録を残している。今、見直されてもいいのではないだろうか。

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2011年6月10日 (金)

日本仏教の宗教改革

日本仏教の宗教改革者というと、あるいは親鸞を連想する人が多いかも知れない。しかし、親鸞の前に法然がいた。法然こそ、日本仏教の宗教改革の発端をつくった人ではないだろうか。そして、この二人とキリスト教の宗教改革を対比して考えてみるとおもしろいかも知れない。

親鸞は日本のルターだったのであろうか。そう思う人も多いかも知れない。信仰のみ、信仰義認のルター、悪人正機、絶対他力の親鸞には信仰の形に類似点があろう。カール・バルトも親鸞を知って、キリスト教信仰に近いと驚いていた。しかし、キリスト教(プロテスタント)と日本仏教を比較する時、ルターに対応しているのは法然であろうという見解もあると思う。では、親鸞はどうなのか、と言えば、カルビンに対応しているのである。これには説明が必要であろう。

この着想は、かつて、NHKラジオ深夜便で、ひろさちやさんの講演を聞いたことで思いついた。ひろさんは、法然と親鸞の違いを説明された。法然における「念仏を唱えることの必要」と、親鸞における「いや、それすらも条件ではない」という違いである。

キリスト教の側にも、信仰の必要の指摘と、それが条件となれば、神人協力説、半ペラギウス主義になるとして、その条件性を否定する人たちもいる。信仰の必要では一致しつつも、その見方で、あるいは発展があるのかも知れない。

ひろさんの話を聞きながら、法然と親鸞の違いに、ルターとカルビンの違いを思った。カルビンの予定説の中では、ただ、神の決定に信頼を置く信仰の姿勢がある。親鸞の場合は、阿弥陀仏への絶対的信頼で、それが人間の側の念仏の「行為」を超えているとしたら、そこには予定説のカルビンとの近さも洞察されるのではないだろうか。ルターとカルビンの違い、そんな違いが法然と親鸞の間にも、あるいはあるのかも知れない。

しかし、日本の仏教は、南無阿弥陀仏で終わらなかった。そのあと、南無妙法蓮華経の新たな立場が現れたのである。もし、この違いをキリスト教と対比して考察すれば、南無阿弥陀仏はルター、南無妙法蓮華経はカルビンとして、その類似点を思いつくかも知れない。南無阿弥陀仏は信仰のみ、南無妙法蓮華経は聖書主義の立場である。もちろん、宗教改革は「信仰のみ、聖書のみ」で、共に主張しているとも言えようが、ルターとカルビンの間には強調点の違いがある。

南無妙法蓮華経は、法華経を奉じるという姿勢である。キリスト教の中で聖書主義を強調する信仰が発展していったのは、改革派の中においてではなかったであろうか。特にオランダ改革派教会の歴史の中で、聖書の客観的権威が確立していったことを思うと、何か、日本の日蓮の起こした宗教との類似性を思わされるのである。

親鸞は法然を土台として、その次の段階を見ているとしたら、それはルターの次に登場したカルビンを予想させる。また、南無阿弥陀仏のあとに南無妙法蓮華経が登場したことのつながりを考えるなら、やはり、ここにもルターのあとに登場したカルビンを予想させるものがあるように思う。もちろん、キリスト教的解釈は、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経を対立的にではなく、発展的に解釈しているのである。

法然と親鸞、ルターとカルビンを、それぞれ対応させて考えてみるのも、興味深いのではないだろうか。

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2011年6月 8日 (水)

二つの愛

「およそ人間が何を愛するにもせよ、人間の愛は結局において、普遍的存在か自己自身かのいずれかに向かっているのである。愛するという機能ないしは行為の固有の対象は、普遍的存在あるいは自己自身なのである」
「人間にとって、普遍的存在と自己自身とを、同時に愛することも、両者のいずれをも愛しないことも、共に不可能である」
(「パスカルとニーチェ」吉沢伝三郎著)

アウグスチヌスの神の国と地の国に対応して、二つの愛がある、ということであろう。二つしかないということも肝心な点かもしれない。あれか、これかの二者択一である。ということは、人生とは、まさに決断の連続ということになろうか。

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出世

「もし人間がただサタンにのみ仕えることを望むなら、サタンは、人間の要求するものを必ず与えるであろう。富、名声、地位、権力、これらはすべて、悪魔の贈物の中に入っている。彼はこれらのものを所有しており、彼の悪意がひそんでいる目的を達成するために、それらを実際に人間に与えるのである」(「キリストの危機」キャンベル・モルガン著)

出世は結果であり、目的ではない。目的としたら、それはサタンに仕えることになるかも知れない。ウェーバーの名著を読むと、資本主義の初期に、この混同があったのではないだろうかとも思う。結果を目的にしてはいけない。それは偶像になる。

だから資本主義は、その中に正しいものを含んでいたかも知れないが、それもまた、サタンに仕えるものになったかも知れない。

それにしても、人間は結果を求めるのではないだろうか。結果を求めない生き方とは、どういうものであろうか。ただ神の国の到来が現実的なものと知る時に、それが可能になるのではないだろうか。

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神の国と教会

「プロテスタントは別れた兄弟」とカトリック教会の第二バチカン公会議では言っている。兄弟とは、信仰の一致の可能性を表明した表現であろう。そこでアウグスチヌスに注目することが教会一致に必要かもしれない。彼の信仰はプロテスタントに親近性があるから。ルターにおいても、またカルビンにおいても。一般的には、プロテスタントの信仰の系譜は「パウロ、アウグスチヌス、ルター」と続くと見られている。カルビンもその線上にある。そして、アウグスチヌスはカトリック司教であった。彼のあとに、彼のような影響のあるカトリック司教を知らない。

さて、ベルジャーエフは、著書『奴隷と自由』の中で、「教会を神の国と同一視し、教会の歴史的観念を、神の国の終末的観念と同一視することは、聖アウグスチヌスに由来するが、また客体化された意識から産まれる幻想の一つである」と言っている。

これはアウグスチヌスが著書『神の国』で無千年王国説を説いたことと無関係ではないであろう。これがカトリック教会の立場になっているようだ。しかし、彼は、同じ著書の中で、神の国を地の国と対立させているが、その中で、教会と神の国とを同一視してはいないと思う。ベルジャエーフの理解は一面的ではないであろうか。

アウグスチヌスは千年王国説に関連して、最初は前千年王国説(千年王国の前に再臨がある)であったが、のちに無千年王国説になったと言われている。その変更の理由は何だろうか。

千年王国については、三つの立場がある。一つは前千年王国説、一つは後千年王国説、一つは無千年王国説。3世紀までの教会は前千年王国説だったと言われている。教会が迫害下にあり、殉教者たちが多く出た時期、再臨を待望する信徒たちは多くいたのであろう。理解できることではないだろうか。そして、プロテスタントの福音派では、この立場を表明する人たちが正統意識を表明している場合もある。

しかし、疑問もある。前千年王国説では、再臨、携挙、ハルマゲドンと続くように言われているが、そうなると、千年王国のあとに混乱もなく新天新地が始まることになる。しかし、聖書は千年期のあとにサタンの一時的な活動があると言っているように思うが、それはハルマゲドンではないということになる。

一方、後千年王国説は、比較的穏健だけれど、二つの大戦のあと、すたれたとも言われている。しかし、ある人たちは、この立場を主張している。

いろいろと疑問は尽きない。

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東京電力の限界

東京電力が福島第一原発の事故の中で、撤退したいと伝えたら、菅総理が東電本店に乗り込んで、「ふざけるな」と怒鳴ったという。撤退は現場作業員を全員退去させるという意味にとられたのだろうか。しかし、東京電力が自分らの能力を超えているので、国にお願いしたい、という意味もあったのかも知れないと思う。「国にお願いしたい」の意図を勘違いしたのではないだろうか。今回の事故の処理は、一企業の能力を超えていると思われる。

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2011年6月 5日 (日)

聖霊の時代

12世紀の中世カトリック教会にフィオーレのヨアキムという神学者がいた。彼はシトー会の修道院長であった。彼の主張した歴史思想をヨアキム主義という。教皇から異端とされたが、どこが問題なのかは、分からない。

彼はいう。全歴史は三つの時代からなっている。第一は父の時代で、祭司と預言者の時、だから旧約の時代であろう。第二は子の時代で、その時までの教会の時代にあたる。そして第三の時代が、聖霊の時代であるという。彼は、この聖霊の時代について、その内容を説明しているという。

しかし、ここで問いたいのは、聖霊降臨の時から聖霊の時代は始まっているのではないかということである。そうすると、子の時代はイエスがいた時で、30年くらいということになろうか。

あるいは、聖霊の時代とはキリスト再臨後の時代を意味しているのであろうか。第二の時代と第三の時代の境には何があるのだろうか。

第二の時代と第三の時代とは、見方によれば、だぶっているのである。第三の時代が本質的な時代であり、第二の時代は第三の時代のためにある、その道具なのだと見れば、正解に近いであろうか。

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天使祝詞

マリア崇拝という言葉があり、偶像崇拝のように受け取られている。しかし、マリアは神ではない。マリアに祈るカトリック信徒たちは、マリアを神と思っていのるのではない。

では、なぜ、マリアに祈るのか。

一つは取り次ぎと言われている。多くのカトリック信徒の考えているのは、この取り次ぎであろう。

しかし、もう一つの意味があるかも知れない。それは、マリアの信仰である。

その時、思うのは、ヨナの失敗である。ヨナの失敗と自分の失敗を重ねて考える人にとって、マリアの従順に参与することは、償いの意味を持つかも知れない。その具体的実践が天使祝詞なのかも知れない。

こう考えると、天使祝詞には大きな意味があると思えてくる。

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罪と償い

ヨナの失敗は瞬間的なものであったであろう。しかし、その結果は歴然としたものになった。

同じような失敗をしたキリスト者もいるかも知れない。その時、どうしたらいいのだろうか。

その失敗に対応しているのは、マリアの信仰であり、従順である。そのことを思い返し、天使祝詞を祈るのもいいのではないだろうか。それが償いとなるのではないだろうか。

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人生の意味

「私たちの人生のいろいろなできごとは、統一もなく相互の関連性もなく偶然に起こるような断片的なものではない」(『信仰に生き抜いた人、ジョージ・ミュラー』A・T・ピアソン著)

人生の意味とは、特に自分の人生の意味のことである。ここで、人生に無意味な出来事はないと言われていても、意味を見いだせない場合もあろう。

東日本大震災の意味は何か、と問うても、見いだせるであろうか。

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