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2012年2月28日 (火)

『基督再臨説を排す』を読む

国会図書館で、富永徳磨著『基督再臨説を排す』(警醒社書店、大正8年7月13日)を読んだ。そのあと、これに対する反論である畔上賢造著『基督再臨の希望 富永徳磨氏の再臨排撃論を駁す』(警醒社書店、大正8年10月10日)も読んだ。

内村鑑三らの再臨運動には関心を持っていたが、その時に必ず出るのが、富永徳磨の反対論である。今まで、関心はあったが、読む機会がなかった。

富永は、『基督再臨説を排す』で、霊的再臨と有形的再臨に区別するが、畦上賢造は『基督再臨の希望』の中で、霊的再臨は聖霊降臨と言った方がよいという。確かにその通りだ。畦上は、再臨派は霊的再臨を知らないという富永に対して、事実と違うと指摘。この点では畦上の勝ちだろう。

しかし、「要するに富永氏は或一部の再臨熱狂家を見て、再臨信仰そのものを見ないのである」と畦上はいう。ということは、部分的には当たっているという指摘を含んでいる。

内村鑑三は富永の本が出た時、自分への挑戦状と思ったのかも知れない。そこで、過激な反応が生まれたのだろう。しかし、この書は、再臨運動の中にいて、信仰の本質を誤っている人々への批判としては有効であったのではないだろうか。内村は運動を終える時、それを知ったのだろう。『聖書之研究』の最終号で、再臨信仰の継続を提唱しているが、そこには、運動収束の理由として、富永の指摘したような危惧があったと指摘しているのである。

しかし、もちろん、再臨信仰の中の何が誤りなのか、それは課題でもある。

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