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2012年10月30日 (火)

シュバイツァーにノーベル平和賞

10月30日(1952年)、アフリカのランバレネで医療活動を行った医師、アルベルト・シュバイツァーのノーベル平和賞受賞が決定。

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アブラハム・カイパー誕生

10月29日(1837年)、オランダの政治家、神学者、アブラハム・カイパー誕生。享年83。10歳の時に回心を経験。1901~10905年までオランダの首相。オランダ改革派教会創立者の一人。

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中田重治誕生

10月27日(明治3年)、伝道者、中田重治誕生。享年68。日本ホーリネス教会の創始者の一人。東奥義塾に入学、17歳の時、キリスト教信仰を持ち、ギデオン・ドレーパーから受洗。その後、ムーディー聖書学院で学び、インド人伝道者の集会で聖霊体験をした。

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2012年10月26日 (金)

八木重吉没

10月26日(昭和2年)、詩人、八木重吉没。享年29。大正8年、駒込基督会で、富永徳磨牧師から洗礼を受けた。故郷の町田市に八木重吉記念館がある。

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田中耕太郎誕生

10月25日(明治23年)、第二代最高裁判所長官、田中耕太郎誕生。享年83。法学者で、文部大臣、国際司法裁判所判事など歴任。最初、内村鑑三の集会に出ていたが、離れ、妻峰子の影響もあり、カトリックに変わった。

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松前重義誕生

10月24日(明治34年)、東海大学創設者、松前重義誕生。享年89。内村鑑三に師事したこともあり、内村が校長だった精華学園(女子独立学校)は今、東海大学付属望洋高校になっている。

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2012年10月23日 (火)

吉満義彦没

10月23日(昭和20年)、カトリック哲学者、吉満義彦没。享年41。内村鑑三の集会にいたが、岩下壮一の導きでカトリック信仰を持ち、フランスに行き、ジャック・マリタンのもとで学んだ。「詩人哲学者」とも言われる。毎年、有志による「しのぶ会」がある。

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神谷美恵子没

10月22日(昭和54年)、精神科医、神谷美恵子没。享年65。ハンセン病患者の治療に生涯を捧げた。父は内村鑑三門下の前田多門。兄にフランス文学者、東大教授の陽一がいる。クエーカーや仏教にも関心を持ったが、キリスト教に対する関心を生涯持ち続けた。

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志賀直哉没

10月21日(昭和46年)、小説家、志賀直哉没。享年88。若い日に7年間、内村鑑三の集会に出ていたが、明治41年ごろ、キリスト教から離れた。

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第一バチカン公会議が閉会

10月20日(1870年)、第一バチカン公会議が閉会。トリエント公会議以来の300年ぶりの公会議で、1869年12月8日に始まり、4期にわたった。教皇首位説、教皇不可謬説を採択。

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土井晩翠没

10月19日(昭和27年)、詩人、英文学者、土井晩翠没。享年80。「荒城の月」の作詞者。昭和に入ってから妻子に先立たれたが、八枝夫人と長女はプロテスタントのクリスチャンだった。

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2012年10月21日 (日)

ルターの意図は?

ルターの宗教改革の真の意図を、しっかりおさえる必要がある。トマス・アクィナスに対して、救いとは何かという点での「端的かつ明確な」回答に不満があったのかも知れない。もちろん、トマスには、その回答がある。しかし、それに至る過程で、余りにも煩雑過ぎたのかも知れない。それは、トマスの体系の問題かも知れない。
アリストテレスの学習のあとに、救いの教えがくるのではなくて、直ちに救いの教えがきて、どこがいけないのだ。ルターは、そのような回り道はしたくなかったのだろう。この点を理解するセンスが必要だ。
アリストテレスの哲学は、聖書の教えに不可欠なのか、と問われれば、そうではないだろうと言って、間違いではないとも言える。
ルターには、魂の救いに関しての実存的な関心があった。その中で、トマスは、アウグスチヌスほどには射程に入らなかったのではないか。実際に、トマスの場合には、哲学、それもアリストテレス哲学が、神学に浸透し、それが不可欠のようになっている。しかし、魂の救いのためには、不可欠ではない。魂は、どうしたら救われるのか、という問いに対して、トマスの教えは、どこか、まどろっこしい感じを与えたのかも知れない。
このような問いの有効性を考慮しないでは、プロテスタンティズムの意味をとらえることができないであろう。実際、プロテスタンティズムは大きな成果を挙げてきたのである。
このことを考慮しつつ、使徒継承を考えるべきであろう。使徒継承は、ルターとしては、尊重していたであろうが、その立場では、当時は「改革」は不可能である。従って、仕方なく、使徒継承を放棄したのであろう。それは、改革の立場を鮮明にするために放棄したのであって、そのプロセスの中で出てきた決断であった。しかし、恐らく、その決断が、のちにプロテスタンティズムに教派の存在を許し、新たな課題・難問をもたらしたのであった。

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2012年10月18日 (木)

森有正没

10月18日(昭和51年)、哲学者、フランス文学者、森有正没。享年64。大正2年に洗礼を受けた。暁星小学校、同中学校、旧制東京高等学校で学び、東京帝大文学部哲学科卒。東大助教授になったが、昭和25年、フランスに留学、帰国せず、研究を続けた。哲学的エッセイで注目された。

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ルーカス・クラナッハ(父)没

10月16日(1553年)、画家、ルーカス・クラナッハ(父)没。享年81。ルネサンス期ドイツの人で、宗教改革者のマルティン・ルターと家族の肖像画を多く残している。息子も同名。

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エドウィン・O・ライシャワー誕生

10月15日(1910年)、元駐日アメリカ大使、エドウィン・O・ライシャワー誕生。享年79。長老派教会宣教師のオーガスト・カール・ライシャワーの次男で、明治学院内の宣教師住宅で生まれた。大使退任後はハーバード大学日本研究所長。

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弓削達没

10月14日(平成18年)、歴史学者、弓削達没。享年82。クリスチャン。古代ローマ史専攻。東京教育大学、東大などで教え、フェリス女学院大学学長も務めた。護憲論者、天皇制廃止論者。

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吉満義彦誕生

10月13日(明治37年)、カトリック哲学者、吉満義彦誕生。享年41。現在、『三田文学』で、若松英輔氏が「吉満義彦」を連載中。

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カール・ヒルティ没

10月12日(1909年)、スイスの法学者、哲学者、カール・ヒルティ没。享年76。『幸福論』の著者で、神のそば近くあることが永続的幸福を約束すると主張。日本での最初の紹介者は東大で哲学を教えたケーベルだった。

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杉山元治郎没

10月11日(昭和39年)、政治家、農民運動家、牧師、杉山元治郎没。享年78。大阪府立天王寺農学校在学中にキリスト教信仰を持った。その後、東北学院神学部で学び、卒業後、各地で牧師を務めた。昭和3年、全国農民組合委員長になり、戦後は衆議院副議長にもなった。

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2012年10月12日 (金)

賀川豊彦とカトリシズム

 賀川豊彦は内村鑑三同様、日本のプロテスタント史上、忘れることのできない大人物であった。内村がどちらかと言えば書斎と講壇の人であったのに対して、賀川は実践の人であった。
 賀川は堅い改革派信仰を持った米人宣教師に見出され、初めは改革派教会の信仰の中で育てられていった。しかし、信条的堅さよりも、心情の深さ、広さ、高さに秀でていた賀川は終生、神学者カルビンには余り関心がなかったようだ。彼が<衣鉢を継ぐ>として常に念頭に置いていたのは、ジュン・ウェスレーとアシジの聖フランシスコであった。彼が、その創設にあずかり、常に、その団体の第一の指導者と目されていた「イエスの友の会」は、フランシスコ会の第三会(信徒会)をモデルにしているのである。
 賀川はカトリック神学に興味を持っていたとは思われない。内村は本質を見抜く力に秀でていたために、プロテスタント信仰を突き詰め、その中でカトリックに対して同情と共鳴を示すこともあった。教会問題に関する内心の揺れに対して、内村は、生涯の終わり近く、プロテスタント主義の徹底を叫ぶことで決着をつけたのだが、いずれにしても内村においてはカトリックは生涯、頭から離れず、悩まされ続けたのではないかと思われる。しかし、賀川には、このようなカトリックとの対決とか、受容といったことは、生涯、明確に意識されていなかったであろう。
 彼はプロテスタントの運命にひきずられ、時にプロテスタントの枠を超えて、新しい時代、新しい世界を待ち望み、そのために奮闘した。それらは巨大な実践となって現れていったが、その動機が、どのようにプロテスタント信仰と結びつくのか理解しにくい面があって、周囲の誤解を招いたこともあった。牧師としての賀川は、彼の出身教会である日本基督教会の平均的な牧師像からは余りにもかけ離れていたために、一部の同僚牧師から軽んじられ、批判もされた。しかし、そこにはプロテスタンティズムの歴史的制約をも超える、彼の先見性があったのではないだろうか。この新世界の預言者としての賀川の中にカトリシズムが潜んでいるのだ。彼を大きく羽ばたかせていったのは、この隠されたカトリシズムが彼の中で力強く働いていたためであった。
 賀川のキリスト教において顕著な特徴は、その社会性である。それは教会内部の社会性といったものではなく、人間全体、人類といったもので、彼は常にこの意識を持っていた。これは、果たしてプロテスタンティズムから自然に流れ出てくる観念なのだろうか。プロテスタンティズムの運命はピューリタニズムや無教会に流れていくのであり、それは分離や個人主義化へと常に向かっている。従って賀川の中に総合への志向、人類全体への視座があるとしたら、ここにはプロテスタンティズムへの反省があるのである。狭い教派主義、信条主義で壁ができているプロテスタント世界の中で、賀川を異様に大きく映し出したもの、それはプロテスタンティズムへの反省としてのカトリシズムの真理契機ではなかったであろうか。
 賀川の謎を解く鍵はどこにあるのだろうか。それは協同組合である、と私は考えている。賀川の社会理論は協同組合主義である。彼は、これが資本主義の弊害を克服する最善の、唯一の道であると考えた。そして、これは資本主義だけではなく、近代の分裂国家群のもたらす弊害をも克服し、新しき中世をもたらすダイナミズムでもあったのだ。
 協同組合は確かに資本主義の弊害を克服する社会理論として現れてきたが、ルネッサンス期のユートピア思想の影響も受け、新しい社会へのロマンチシズムを常に内にたたえていたのである。それは、ヨーロッパ近代が失ったキリスト教共同体(コルプス・クリスチアーヌム)への新たなる再建へと霊感されていたのである。
 賀川は戦後、世界連邦運動に走った。これも、彼の協同組合理論の一つの展開であった。ここにおいては、全人類が一つの共同体に属するという思想が現れている。これは現在、着々と実現されてきているではないか。科学・技術の進歩により、<国際化>の波が怒濤のように押し寄せてきているのが現代社会である。誰も、この力を妨げることはできない。と言うことは、世界連邦とあえて言わずとも、世界は着実にその方向に向かっているのである。
 世界性、国際性、普遍性--こう言った観念が常に賀川の中にあった。私は、これを、彼の中に隠されていたカトリシズムと呼ぶのである。協同組合をキリスト教的に見て、どう評価するか? こういった問題意識は、どうしてプロテスタント信仰の中から生まれてくるのだろうか。しかし、カトリック世界では、社会理論の検討の中で、協同組合には高い評価が与えられている。賀川が協同組合主義者であったが故に、プロテスタント世界では対話の相手を狭めたとすれば、逆に、この思想はカトリック世界では対話の相手を広げるきっかけになるのだ。
 キリスト教は確かに魂の救いが大事である。これはプロテスタントの主張する大切な真理である。しかし、人間は一人では生きていけない存在であり、社会を形成しなければ生存を全うできない。この社会性をプロテスタント信仰の中で、どう位置づけるのか。
 内村はプロテスタント信仰に忠実に生きたが故に社会性を犠牲にし、賀川は社会性に目覚めたが故にプロテスタント世界では異様に映ったと言えようか。そして、この社会性への顧慮、包括的・総合的な視座こそがカトリック的なのである。教皇も、公会議も常に人類全体への視座を持っている。賀川が一般的なプロテスタント意識の中で異様なるものとして映るとしたら、それは彼の中に秘められているカトリシズムの故である。

(注)
 賀川は、どうして日本のキリスト教会から高い理解を得られなかったのか。それは、彼のキリスト教的な、信仰的な論理と世俗的・協同組合的論理との接点が理解できなかったからである。
 もし、世俗的・協同組合的論理をキリスト教的な、信仰的な論理に従属させたら、日本のキリスト教会も理解したであろう。カトリックには、それができたのだが、プロテスタンティズムには、世俗的・協同組合的論理を理解する視点が明確になっていなかったのではないか。
 要するに賀川のビジョンというものが、どうしてキリスト教的であるのか、信仰の隣人たちには、十分に理解できなかったのだ。いや、それはキリスト教的であったにしろ、どうして教会的であったのか分からなかったのだ。
 賀川のビジョンをキリスト教的に位置づけること、これが出来れば、カトリックとプロテスタントとの新しい関係、理解が進むであろう。

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2012年10月11日 (木)

一カトリック信徒の日露戦争回想

 もし日露戦争がなかったら、上智や聖心といったカトリックの大学はなかったかも知れないし、イエズス会の再来も、違ったものとなったであろう。
 イエズス会の日本再来は、大学(上智大学という名前になった)設立が目的で、管区は、その後に出来たのである。普通は、宣教師が来て、教会の設立と共に教育活動が始まり、それから教育機関としての大学などが出来るのであるが、イエズス会の日本再来には大学の設置という目的が既にあったのである。
 しかも、これがカトリック教会やイエズス会の一方的な宣教方針の中で始まったのではなくして、日本の中の識者が、それを望んだということが大切なことである。また、その設立希望の趣旨の中に、プロテスタント的体質が革命に流れることへの「歯止め」のような意図があったことも面白い。
 そして、ここでは、カトリックが日本の国体と合致するとまで言われているのである。このような背景を見ると、こうして出来た大学(上智大学)に井上哲次郎氏が哲学教授になったことも理解できなくはない。
 大正時代にイエズス会が創立した上智大学は、カトリックとして日本最初の高等教育機関となった。この創立の経緯については、山口鹿三氏が貴重な記録を残しているので、それを参考にして紹介する。
 日本は日露戦争に勝利して、米国の斡旋により米国・ポーツマスで講和条約を締結した。時の教皇・ピオ10世は、この平和回復を祝して、また戦争中、日本・中国・満州で、日本がカトリック教会をよく保護したことに感謝しようと、特使を派遣してきたのである。
 教皇使節の日本派遣の理由を考えて、どうしてと思わざるをえない。それは、カトリック教会がパリ・ミッションの独占宣教下にあったので、三国干渉で、日本とフランスとは対立し、また日露戦争で、フランスはロシア側であったので、この当時のカトリック教会は小さくなっていなければならなかったのである。そう考えると、教皇使節の派遣も理解できるようになる。
 教皇特使は米国・ポートランドのオコネル司教(のちボストン大司教で枢機卿になった)であった。
 オコネル司教は1905年(明治38年)10月31日、二人の秘書とともに入京し、帝国ホテルに宿を取った。司教は11月10日に明治天皇に拝謁し、ピオ10世の親書を奉呈した。
 この来日に関して、オコネル司教は歓迎されたが、日本のカトリック教会はフランス一色であったために、使節との関わりは日本のカトリック教会ではなくして、平信徒の山口鹿三氏があたることとなった。フランスは当時、ロシア側についていて、日本との政治的関係は難しかったのであろう。
 使節のサップル師は山口鹿三氏と手紙の交換などして、準備にあたった。
 使節の講演会は、築地の司教座聖堂で二回、神田基督教青年会で一回、帝国教育会で一回、行われた。神田基督教青年会では政治家の島田三郎氏や東京帝国大学教授の姉崎正治博士が歓迎の演説をした。
 日刊紙「日本」の主筆・三宅雄二郎博士は社説の中で、日本でのカトリック宣教を実り多いものにするには高等教育機関の設置が必要であると力説していた。 また、桂太郎首相も使節歓迎会の席上で、カトリックの学校、高等専門学校の設立を強く訴えていた。桂内閣の樹立に関して、徳富蘇峰が一枚からんでいる。そして、文教関係の役割を持っていたのである。桂太郎首相の意見に徳富の見解が反映されていなかったであろうか。
 さて、これほどまでカトリックの大学が求められた理由について、山口氏はこう記している。
「然るに我国の識者は自由主義のプロテスタント教は革命に傾く危険あるに反し、カトリック教の権威主義は主権と伝統と従順を重んじ日本の国体に合致することを認め、カトリックの高等学校設立を希望し使節に之を進言したのであります」
 オコネル司教はローマに帰り、このことを詳しく教皇に報告した。そこで、教皇は、この進言を受け入れて、男子の高等教育のためにイエズス会、女子教育のために聖心会を日本に派遣したのである。そして、明治41年10月16日に英国人ロックリフ師を首班とする三人のイエズス会員が日本に着いた。こうして、上智大学、そして聖心女子大学が出来たのである。
 さて、日露戦争は日本のカトリック宣教にとって、もう一つの重要な景気となった。それは、開国以来、日本のカトリック宣教はパリ・ミッションが一手に担ってきたが、戦争勃発を機に、明治37年、四国地方をフィリピンのロザリオ管区のスペイン系ドミニコ会にゆずったことである。こうして、パリ・ミッションの単独宣教時代は終わり、多数宣教会の時代に移ったのである。
 日露戦争についてのカトリックの記憶というものは、上智、聖心というカトリック高等教育機関の設立、そしてパリ・ミッションの単独宣教時代は終わりであろう。

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2012年10月10日 (水)

八代斌助没

10月10日(昭和45年)、元日本聖公会首座主教、八代斌助没。享年70。神戸聖ミカエル教会司祭、神戸教区主教をへて、昭和43年、首座主教に。八代学院創設者。

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田川大吉郎没

10月9日(昭和22年)、社会運動家、田川大吉郎没。享年77。新聞記者、評論家、衆議院議員、東京市助役など、多方面に活動。キリスト教徒。日本基督教連盟常議員、明治学院大学総理を務めた。

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カルケドン公会議始まる

10月8日(451年)、カルケドン公会議始まる。小アジアの都市、カルケドンで、同年11月1日まで。キリストの両性(神性と人性)を確認した。

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「神の愛の宣教者会」が設立

10月7日(1950年)、カトリックの女子修道会「神の愛の宣教者会」が設立された。マザー・テレサのインドでの活動の母体。「死を待つ人々の家」の活動は彼女を含め12人のシスターにより始まった。

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巌本善治没

10月6日(昭和17年)、女子教育家、評論家、巌本善治没。享年79。明治16年、受洗。『基督教新聞』主筆のあと、明治18年、『女学雑誌』創刊。明治女学校の第2代校長。ヴァイオリニストの巌本真理は孫娘。

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ジョナサン・エドワーズ誕生

10月5日(1703年)、アメリカの会衆派の神学者、牧師、ジョナサン・エドワーズ誕生。享年54。大覚醒運動のリバイバル指導者で記録者。説教に「怒れる神の御手にある罪人」がある。プリンストン大学第3代学長。

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アビラのテレサ没

10月4日(1582年)、スペインのカトリック教会の神秘家、アビラのテレサ没。享年67。大テレジアとも言う。修道院改革に尽力した。著書に『霊魂の城』など。

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アッシジのフランチェスコ没

10月3日(1226年)、修道会フランシスコ会創始者、アッシジのフランチェスコ没。享年44。アメリカのサンフランシスコは彼の名前にちなんだもの。また、マザー・テレサも、彼の人生を聞いて修道女を目指したと言われる。その生涯を描いた映画も多い。

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金森通倫誕生

10月2日(1857年)、牧師、金森通倫誕生。享年87。熊本洋学校を卒業し、同志社に入学、新島襄から受洗した。各地で伝道したが、その後、棄教を宣言。しかし、妻の死をきっかけにして信仰を回復、救世軍、ホーリネス教会などで伝道した。石破茂・自民党幹事長はひ孫。

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椎名麟三誕生

10月1日(明治44年)、小説家、椎名麟三誕生。享年61。日本共産党に入党したが、獄中で転向、ドストエフスキーを知り、キリスト教に入信、赤岩栄牧師から洗礼を受けた。

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笹尾鉄三郎誕生

9月30日(1868年)、牧師、神学校教師、笹尾鉄三郎誕生。享年46。淀橋教会(現・ウェスレアン・ホーリネス教団)初代牧師、柏木聖書学院(現・東京聖書学院)初代院長。米国留学中の1890年にメリマン・ハリスから洗礼を受けた。ハリスは内村鑑三、新渡戸稲造に洗礼を授けた人でもある。

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北森嘉蔵没

9月29日(平成10年)、牧師、神学者、北森嘉蔵没。享年82。東京神学大学名誉教授。『神の痛みの神学』(昭和21年)で知られている。

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