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2012年10月11日 (木)

一カトリック信徒の日露戦争回想

 もし日露戦争がなかったら、上智や聖心といったカトリックの大学はなかったかも知れないし、イエズス会の再来も、違ったものとなったであろう。
 イエズス会の日本再来は、大学(上智大学という名前になった)設立が目的で、管区は、その後に出来たのである。普通は、宣教師が来て、教会の設立と共に教育活動が始まり、それから教育機関としての大学などが出来るのであるが、イエズス会の日本再来には大学の設置という目的が既にあったのである。
 しかも、これがカトリック教会やイエズス会の一方的な宣教方針の中で始まったのではなくして、日本の中の識者が、それを望んだということが大切なことである。また、その設立希望の趣旨の中に、プロテスタント的体質が革命に流れることへの「歯止め」のような意図があったことも面白い。
 そして、ここでは、カトリックが日本の国体と合致するとまで言われているのである。このような背景を見ると、こうして出来た大学(上智大学)に井上哲次郎氏が哲学教授になったことも理解できなくはない。
 大正時代にイエズス会が創立した上智大学は、カトリックとして日本最初の高等教育機関となった。この創立の経緯については、山口鹿三氏が貴重な記録を残しているので、それを参考にして紹介する。
 日本は日露戦争に勝利して、米国の斡旋により米国・ポーツマスで講和条約を締結した。時の教皇・ピオ10世は、この平和回復を祝して、また戦争中、日本・中国・満州で、日本がカトリック教会をよく保護したことに感謝しようと、特使を派遣してきたのである。
 教皇使節の日本派遣の理由を考えて、どうしてと思わざるをえない。それは、カトリック教会がパリ・ミッションの独占宣教下にあったので、三国干渉で、日本とフランスとは対立し、また日露戦争で、フランスはロシア側であったので、この当時のカトリック教会は小さくなっていなければならなかったのである。そう考えると、教皇使節の派遣も理解できるようになる。
 教皇特使は米国・ポートランドのオコネル司教(のちボストン大司教で枢機卿になった)であった。
 オコネル司教は1905年(明治38年)10月31日、二人の秘書とともに入京し、帝国ホテルに宿を取った。司教は11月10日に明治天皇に拝謁し、ピオ10世の親書を奉呈した。
 この来日に関して、オコネル司教は歓迎されたが、日本のカトリック教会はフランス一色であったために、使節との関わりは日本のカトリック教会ではなくして、平信徒の山口鹿三氏があたることとなった。フランスは当時、ロシア側についていて、日本との政治的関係は難しかったのであろう。
 使節のサップル師は山口鹿三氏と手紙の交換などして、準備にあたった。
 使節の講演会は、築地の司教座聖堂で二回、神田基督教青年会で一回、帝国教育会で一回、行われた。神田基督教青年会では政治家の島田三郎氏や東京帝国大学教授の姉崎正治博士が歓迎の演説をした。
 日刊紙「日本」の主筆・三宅雄二郎博士は社説の中で、日本でのカトリック宣教を実り多いものにするには高等教育機関の設置が必要であると力説していた。 また、桂太郎首相も使節歓迎会の席上で、カトリックの学校、高等専門学校の設立を強く訴えていた。桂内閣の樹立に関して、徳富蘇峰が一枚からんでいる。そして、文教関係の役割を持っていたのである。桂太郎首相の意見に徳富の見解が反映されていなかったであろうか。
 さて、これほどまでカトリックの大学が求められた理由について、山口氏はこう記している。
「然るに我国の識者は自由主義のプロテスタント教は革命に傾く危険あるに反し、カトリック教の権威主義は主権と伝統と従順を重んじ日本の国体に合致することを認め、カトリックの高等学校設立を希望し使節に之を進言したのであります」
 オコネル司教はローマに帰り、このことを詳しく教皇に報告した。そこで、教皇は、この進言を受け入れて、男子の高等教育のためにイエズス会、女子教育のために聖心会を日本に派遣したのである。そして、明治41年10月16日に英国人ロックリフ師を首班とする三人のイエズス会員が日本に着いた。こうして、上智大学、そして聖心女子大学が出来たのである。
 さて、日露戦争は日本のカトリック宣教にとって、もう一つの重要な景気となった。それは、開国以来、日本のカトリック宣教はパリ・ミッションが一手に担ってきたが、戦争勃発を機に、明治37年、四国地方をフィリピンのロザリオ管区のスペイン系ドミニコ会にゆずったことである。こうして、パリ・ミッションの単独宣教時代は終わり、多数宣教会の時代に移ったのである。
 日露戦争についてのカトリックの記憶というものは、上智、聖心というカトリック高等教育機関の設立、そしてパリ・ミッションの単独宣教時代は終わりであろう。

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