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2012年11月30日 (金)

人生相談

■昭和48年12月号の、ある雑誌に、こんな文章を載せていました。「人生相談」という題。やはり、大学紛争の余波が残っていて、そのモチーフが現れています■

 僕は以前、ある雑誌の「人生相談」の欄を担当していて、いろんな人の悩みを聞いていたせいか、時々、実に切実な手紙を受け取ることがある。その一つが、あの大学紛争たけなわの頃、卒業式を妨害した一高校生の手紙だった。
 手紙を紹介することに対し、誌面が僅かなので要約にすべきだとか思ったが、この際、全文を紹介する。人間が日常生活においてはほとんど知ることのない、しかし、いつの間にか人間から離れ去ってしまうことも、また永久に忘れられてしまうこともない「最も恐るべきもの」を告知したキェルケゴールも、「当然のことじゃあないか」と、僕の判断を支持するだろう。
 高校生は「死に至る病」の患者なのだ。彼の無鉄砲な行為の背後に隠れ、脅えているちっちゃな心を思う時、僕はその心をぎゅっと抱きしめ、僕の体温で温めてあげたい。無情な「法の番人」は僕の、この呼応を叱るかも知れないが、立派な日本人である「水戸黄門」も「銭形平次」も、ほほえみながら、うなづいてくれるだろう。
 手紙の全文は次のようものだった。
 「僕は卒業式を妨害した高校生の一人です。僕の仲間は十人ぐらいいましたが、みな僕より強そうで、自分のすることに確信を持っているようでした。『こうなんだ!』--そう決めつけるのが彼らの癖で、あとはもうテコでも動かないのです。
 しかし、僕は彼らのように強くなれそうにありません。というのは、僕は人の怒った目を見たり、怒鳴りちらす声を聞いたりするのが怖いからです。そして、僕を馬鹿にする言葉を聞くと、怒るかわりに、冷水を浴びせられたように、金縛りの術にかけられたように、すくみあがってしまうのです。
 では、こんなに弱い僕がどうしてあんな突飛な行動をあえてしたのでしょうか。魂の危機を知ってもらいたかった。ただ、それだけなんです。
 僕は自分がいつも何かに脅えているのを知っているので、この脅えている自分を指して“魂”というのですが、彼らは僕がこの言葉を口に出すのを聞くと、僕を馬鹿にしたり、茶化したりしました。
 僕らは世間では健康優良児、良家のお坊ちゃまで通っているけれど、実は病人なんです。けれども、身体は特にどこも故障がないので、『僕は病気なんだ』と言っても、誰も相手にしてくれず、それに僕自身、自分の病気を説明するのがなかなか難しいのです。
 親は、『お前の仕事は勉強なんだから、勉強していれば、それでいいんだよ』と、僕によく言うのですが、僕には勉強する心の余裕なんかなかったのです。
 時々、町中を救急車がけたたましいサイレンを鳴らして突っ走って行くのを見ましたが、僕は、そのサイレンの音を聞いて、ほっとしたのです。この平和で、何もかも満ち足りているような社会の中で、僕は毎日、何かで首を締め付けられているように感じるのです。救急車のサイレンの音は、出口のない、重い僕の気持ちを吸収してくれ、僕は患者には失礼ですが、ようやく、いくらか肩のこりをほぐすことができるのです。
 どうか、こんな僕を助けてください」
 ある日、僕の親友で、いつも口ぐせのように、「自分はゆくゆくは、長谷川如是閑のように文明批評の分野で仕事をしたい」と言っている自称“雑学博士”が来たので、この手紙を見せた。
 “雑学博士”は、手紙を読んだあと、開口一番、次のように言い切った。
 「この少年は、今の日本の多くの宗教家よりも、ずっとずっと宗教的な要素がある」
 「何を根拠に、そんなことを言うんだい。場合によっては、君の言葉は日々の宗教的行事を忠実に行っている宗教家に対して、非常なる侮辱だよ」
 「いいじゃないか。宗教とは、キェルケゴールが指摘したように、神の前における実存的体験が原点なんだから。それがなければ、いくら学んでも、実践しても意味がないんだ」
 

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