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2012年11月13日 (火)

アウグスチヌスをどう見るか?

「アウグスチヌスはプロテスタント側からは宗教改革思想の先駆者の一人と見られている。それは、ご自身の選びたもうた者を必ず救いたもう神の絶対主権による恵みの結果として、人間が原罪から救われるということを強調しているからである。しかし、人間がどういうふうに救われるかについての議論について、アウグスチヌスは、見える制度としての教会と、その信条と礼典と伝道とをあまりにも強調しているので、ローマ教会はかれをローマ・カトリック主義の父と見ている。かれがこのように強調したのは、一方には、ペラギウス派の主張を、他方にはドナトゥス派の主張を破るためであったことを、心に留めるべきであろう。聖書の部分を解釈するのに聖書全体の主張を考慮しなければならないというかれの主張は、教会にとって永久的価値のある原理となっている。
 これらの永久的功績があるにもかかわらず、アウグスチヌスはキリスト教の思潮のなかへ、いくつかの過誤を持ち込んだ。かれは煉獄の教義と、それにともなうすべての害悪とを発展させるのに力があった。バプテスマと聖餐式の二礼典の価値を重んじた彼の見方の論理的な結果として、バプテスマによる更正と聖餐式による恵みとが強調された。
 アウグスチヌスのこうした強調のゆえに、キリスト教会にとってのかれの重要性を無視すべきではない。パウロとルターとの間において、教会には、アウグスチヌス以上に偉大な道徳上および精神上の人物はいないのである」(『基督教全史』E.E.ケァンズ著から)

「ハルナックは、宗教改革運動は、教理の面では改革であり、教会組織の面ではまさに革命であったと見ている。それは、宗教のもっとも深い本質において立派な革命であった。ただわれわれは、この革命の真の教師が、ローマ教会最大の教師である、アウグスティヌス自身にほかならなかったことを主張するのである」(『キリスト教』岡田稔著、小峯書店、65頁)

山田晶氏(故人)の『在りて在る者』という本の中に、アウグスチヌスについての、こんな言葉がある。
「また彼の「恩恵論」についていえば、私は古来多くの人々がこの問題について論争し、互いに自己を主張し相手を否定しながら、いわば「恩恵なき恩恵論争」controversia degratia sine gratia の泥沼の中にもろともに沈みこんでいったことを知っていた。私は自分の研究が神の恩恵によってみちびかれることをいつも祈念していたが、「恩恵」そのものについて論ずることは差控えたいと思った。私はあえてこの危険な泥沼に近づくことを避けたのである」(ⅱ まえがき)
 また、同じ本の中に、こんな個所もある。
「回心以後に書かれた対話篇がプロティノス的であるということから、この回心の真実性を疑い、それは「ネオ・プラトニスムへの回心」であるとか、「形而上学への回心」であるとかいう人があるが、その人々は「回心」の真の意味を知らないのである。回心以後、アウグスティヌスは哲学を捨てたのではない。キリストに回心した以上、「哲学」を捨てなければならないと考えるのは一つの偏見である」(ⅹⅴ まえがき)

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