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2014年3月12日 (水)

内村鑑三の「実験」とは

「内村鑑三の言う実験とは何ですか?」

「まず新生のこと、そして聖化も含まれるでしょう。次に栄化への望みがあります。栄化への望みは未来に関わることなので、実験はないかも知れませんが、それでも望みの果は一つの実験として理解できると思います」

「内村鑑三の言う実験と一般的な実験とは、どこが違うんですか?」

「一般的な実験では実験者が実験台にはならないんですが、内村の場合には、あなたが実験台になりなさいという含意があるんです。内村は、実験について、次のように言っています」

「キリスト教は理論ではなく事実であり、実験である。理論だけでキリスト教を悟ろうとするのは、理論だけで化学を研究しようとするようなものである。理論だけでは、私たちはとうていキリスト教がなんであるかを了解することはできない」

「キリスト教は理屈ではなくして実験でありますから、これを宣べ伝うるためのもっとも有力なる方法は、自己を標本としてこれを世に示すにあります」

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コメント

教義(パウロ)なき実践(ヤコブ)は盲目であり、実践なき教義は空虚である。 内村の晩年の日記にはカントがしばしば登場します。認識の成立を直観と概念の合同作業にあるとしたカント。内村は真のクリスチャンの成立要件を深い教義の理解とそこから生じる実践活動にあるとみていたと思います。ロマ書の深い理解から生じた信仰なら必ずやヤコブ書でいうところの行いは果として表れる、それが内村の実験だったのではないでしょうか。

投稿: | 2014年3月14日 (金) 10時00分

内村の実験とは教義の前提と思います。実験の反省の中でパウロの信仰義認の教義が生まれてきたのだと思います。ルターのヤコブ書理解は信仰義認と対立しているように見られていて、少し誤解があるかも知れませんが、ルター派教会出身の神学者、故北森嘉蔵牧師は、行為は信仰の結果として自然に生まれてくるという理解をしていて、それでいいのだと思います。カトリック教会は神との協力といった面を捨てることはないのかも知れませんが、救い(回心体験)における自力救済的要素の温存と見られたら、少し違うかも知れません。教会の歴史では、神人協力の立場である半ペラギウス主義も退けています。しかし、前世紀末、ルター派(ルーテル世界連盟)との間で「信仰義認に関する合意」に至っています。

投稿: | 2014年3月30日 (日) 16時28分

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