« 2016年3月 | トップページ | 2016年5月 »

2016年4月24日 (日)

祈りについて

「祈りで大切なことは何?」
 
「①祈りには何かを求める要素も含まれているよ。しかし、おまけで与えられるものを、第一に熱心に求めていないかの反省も大切。神の国と神の義を第一に求めよ、と言われていて、これは生涯の、日々の祈りになるべきと思う。
②祈りで大切なことはサタンの嫌がることを願うこと。そうすると、心に元気が注入されるよ。
③それに、祈りは必ず叶えられる祈りでなくてはならない。しかし、それは恐らく死ぬまで叶えられない祈りかもしれない。ユダヤ教徒がメシアを待望しているように、ね」
 
「ネットの動画で回心の祈りを先導している人がいるけど、そこで救いを経験できるの?」
 
「できると思うよ。しかし、教会で洗礼を受けて、キリスト信者であることを表明する必要があると思う。そこまで、その人がどう導かれるかは大切なんだ。信仰を表明することは大切なことだよ。ぐずぐずしていると信仰がおかしくなってしまうんだ」

| | コメント (0)

2016年4月22日 (金)

伝道について

「伝道の目的って何?」
 
「ヨハネ第一の手紙1・3にあるよ。『わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです』。普通は、人々の悔い改めと考えている人が多いだろうね。しかし、皆が悔い改めるわけではない。そう思うと、努力が報われないと考えるかも知れない。しかし、その前に、神の国の接近を告知しなければいけないんだ。ここに絞れば、伝道はずっとしやすくなるんじゃないだろうか。最近思うのは説明責任という言葉。聖霊に導かれ、教えられて神の国に関する説明責任を果たすことだよ。信じるかどうかは聞いた人の選択で、そこまでの責任はないだろうが、聖霊降臨の後は、そこで起きたことを説明する責任がキリスト者にはあるだろうね。しかし、十字架にかかりながら救われた罪人がいたんだから、どんな人だって救われる可能性を持っている人なんだと思うことが許されているんじゃないだろうか。臨終の手前で救われる人だっているかも知れない。だから伝道の結果がすぐ出ないと言って、伝道をやめるべきではないだろう」
 
「伝道は教会のわざって、どういうこと?」
 
「クルセードとかトラクト配布とか、それが伝道と思っている人がいるかもね。しかし、信仰を持った人は、それだけでは不安定なんだ。命は誕生したら成長しないとおかしなことになるんだ。その成長の条件が教会なんだよ」
 
「伝道は大切だけれど、伝道された人たちに対する責任だってあるよね?」
 
「そこが超教派伝道団体の課題だろうね。回心者を教会が受け入れる必要があるけど、うまくいかない場合が出てくる。ウェスレーや、救世軍を創立したブースの場合に、そんな問題があるね」
 
「ISの登場で十字軍という言葉がニュースに出てくるけど、どう?」
 
「ビリー・グラハムの伝道集会をクルセードと言ったけど、それが十字軍という意味なんだ。イスラム教徒には嫌な言葉で、使わなくなったけど、その人たちから十字軍、クルせードという言葉が復活したというのは皮肉な話に思えるよ。歴史を中世に引き戻すつもりかな」
 
「クルセードって十字軍のこと?」
 
「キリスト教の大衆伝道に、その名前を使っていたんだ。しかし、歴史的には聖地奪還を掲げたイスラム教徒との戦いを連想するしね。十字軍側の行き過ぎもあったし、イスラム教徒には忌避感もある。最近は使わなくなったよ」
 
「おもてなし、という言葉が流行したけど、他にも日本語にはいい言葉があるね。例えば?」
 
「おすそわけ、ってのもあるよ。伝道というのは幸せのおすそわけなんだよ」
 
「ところで、伝道と再臨は関係あるんじゃないの?」
 
「再臨を早めるための伝道という見方があるんだよ。大衆伝道者の本田弘慈氏が、『聖書には福音が伝えられてから終わりが来るとあるので、福音宣教は終わりを早めることになる』と言っていた。再臨信仰が伝道と結びついているんだけれど、こんな指摘もあるんだ。内村鑑三が再臨信仰を持ったきっかけはD.C.ベルから送られた"Sunday School Times"に掲載された再臨関連の論文だった。しかし、再臨運動が終わり、内村はその雑誌の購読を中止したらしい。進化論観、伝道観の浅薄が理由だというんだ。富岡幸一郎著『内村鑑三』(中公文庫)にあるよ」

| | コメント (0)

福音宣教論

「ところで、福音宣教ってのは何なんだろうね?」
 
「あなたがたの住んでいるのは滅亡の町なんだよ。そこを離れて永遠の都を目指して巡礼の旅を始めませんか、というお誘いなんじゃないだろうか。滅亡の町を再建することでも、そこで楽しむ方法を見つけることでもないだろうね」
 
「現代的宣教論のテーマで、何かアイデアある?」
 
「宣教の最前線に立っている人が牧師、司祭だよね。ある牧師は、自分史による信仰の証し、また説教や自らの研究成果を全部、インターネットで公開しているんだ。誰でも読むことができる。これも一つの方法かもね」
 
「インターネットでの宣教は可能なんだろうか?」
 
「動画を使って、決心者を募り、回心の祈りを導いている人もいるよ。その祈りで人は救われるかも知れないよ。ただ、そのままではなく、教会に繋がらないといけないんだが、そこが課題かな」
 
「伝道したいという人に何か助言ある?」
 
「現代では、方法はいくらでもあるよ。しかし、いくらお膳立てが整っていても、伝えるべきものを自分が持っていないなら、所詮、伝道は無理。ポール・クローデルは『キリストについて語るのは、問われたときだけでよい。ただし、キリストについて尋ねられるような生き方をしなさい』と言ってるよ。生き方について、他の宗教者に負けていては、宣教の言葉も空転するだけだろう」
 
「語ることが中心であれば、沈黙の伝道ってあり得ないんじゃないの?」
 
「そうかもね。伝道は語ることが中心だよ。しかし、語ることが苦手な人は伝道できないかと言えば、そうではないと思う。語られたことを伝えることも含むんじゃないかな。それが沈黙の伝道かもね」
 
「ところで、伝道と宣教は、どう違うの?」
 
「伝道には排他主義的発想が、宣教には包括主義的発想が結びついていそうだね。だから、両者は違うけれど、相互補完的で、対立的ではないと思うよ。キリスト新聞社から出ている『現代の教会を考えるブックレット3 宣教ってなんだ?』に詳しい説明があるよ。『ミッシオ・デイ』についても議論されている。一読の価値ありだよ」
 
「伝道するには牧師になる必要があるかもと思うけど、牧師の仕事は何?」
 
「牧師だから牧会じゃないかな。信徒を育てること、教会を成長させること、じゃないかな。相手は未(非)信者と思うかも知れないが、基本は信者相手の仕事だろうね。牧師は伝道者でもあるが、伝道者は牧師に限定されないだろう。信徒でも伝道者になれるよ。近代日本での最大の伝道者は内村鑑三と思うけど、彼は一人の信徒だったんだ」

| | コメント (0)

2016年4月21日 (木)

人生とは?

「人生の目的って何だろう?」
「自分はどこから来て、どこに行くのか知ることじゃないかな。多くの人は、その中間のことに心を使っていて、それが人生だと思っているらしいけどね。先祖や予言に関心が集まるのも、自分の最初と最後を知りたいからだよ」
「昭和40年代の大学紛争の時、問題提起という言葉が流行ったね。何か中途半端で終わってしまったようだけど、問題提起者は自分の提起した問題を忘れたんだろうか?」
「いや、忘れられないだろう。自分の中で何らかの解答を見つけなければ次の人生が始まらないだろう」
「人生は、偶然出会った人で大部分が決まってしまうことがあるよ。恐ろしいとは思わない?」
「その人はサタンの使いか神の使いか分からないけど、見方によって、どっちにもなるような気がするよ。絶望の原因ならサタンの使いに思えるけど、真の希望は絶望の彼方にあるんだから、神の使いになるかもね」
「ところで、人間には煩悩があるよね。そこに人生があるという理解もあると思うんだ。煩悩に死んだら、人間として生きていけないんじゃないの?」
「いや、煩悩の人生というのが問題の多い人生であり、課題がつまっているんだ。だから、解決を求める人生であって、そこに安住してはいけないんだ。その課題を端的に言うと、死の問題だよ。そして復活という解決があるんだ。しかし、これは生きているうちに、そのきっかけをつかまなくてはならないんだ。煩悩をどうして離れるか、それは人生の目的になるんだけど、逆にそんなのは敗北だと考える人もいると思うけどね」

| | コメント (0)

« 2016年3月 | トップページ | 2016年5月 »