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2016年7月16日 (土)

「再臨再唱の必要」

 内村鑑三は、『聖書之研究』の最終号(1930年4月)に「再臨再唱の必要」という文を載せています。再臨運動が終わって、もう10年も経っています。内村の永眠の10か月前に執筆され、死後に発表されたものです。その中で、再臨運動を終えた理由と、なお、その信仰の必要を語っています。これは、『内村鑑三信仰著作全集 13』(教文館)に収録されています。重要な資料と思いますので、その一部を紹介します。
 
「再臨再唱の必要
 私は長らくキリストの再臨を説かなかった。それは再臨を忘れたからではない。もちろん、その信仰を捨てたからではない。わが国の信仰状態において、私が先年なした以上にこれを説くの必要を感じなかったからである。さらにまたその危険を感じたからである。再臨は聖書の中心真理と言わんよりはむしろその最終真理と称すべきである。再臨は聖書の結末である。ゆえに聖書のすべてがわかって後に、少なくともその大体がわかって後に、わかるのが再臨の教義である。しかるに、そのあまりに壮大壮美なる教義であるがゆえに、人は初めてこれに接してその肝をひしがれ判断を乱されやすくある。世にいわゆる「再臨狂」の多きはこれがためである。私はキリストの再臨を説いて、多くの悲しむべき再臨狂の実例に接した。ことにこれを敏感な婦人において見た。法は人を見て説くべしであって、再臨の教義を受くる準備なき者にこれを説くは大いに慎むべきであるを知った。
 その点において十字架は再臨よりもはるかに安全である。十字架は神の義の現れである。ゆえに直ちに人の良心に訴う。キリストの十字架は倫理学最後の結論としてこれを唱道することができる。ゆえにその迷信化さるる危険がはなはだ少なくある。さらにまた十字架がわからなければ再臨はわからない。十字架は再臨の前提であって、十字架に出発して初めて安全に再臨に達し得るのである。キリスト教は烈しい倫理教である。それであるがゆえに、キリストの再臨、万物の復興というがごとき絶大壮美の終極に達するのである。十字架なき所に冠なし。十字架を経験せずして、再臨の希望の起こらないのが当然である。されども何びとも十字架はこれを避けんと欲し、冠はこれを戴かんと欲するがゆえに、十字架の苦杯を飲まずして再臨の饗宴にあずからんと欲す。ここにおいてか迷信百出し、再臨狂が続出するのである。キリストの再臨の教義が世に忌まれ識者に卑しめらるる理由はここにある。これを信ずる準備なき者がこれを信じ、唱うるの資格なき者がこれを唱うるからである。そして再臨が侮辱せらるる時に十字架に退却するの必要が起こる。そうして十字架の要塞に拠りて再臨の楽土を開拓せんとする。
 言うまでもなく再臨は聖書の基礎的教義である。再臨を否んで、聖書はわからない。もし十字架が聖書の心臓であるならば再臨はその脳髄であろう。再臨なくして、十字架は意味をなさない。それゆえに、われらクリスチャンは再臨の立場に立ちて聖書を通覧するの必要がある。目を十字架のみに注集して、われらの眼界が狭くなり、したがって信仰が冷却しやすくなる。信望愛は相互をささえ扶くる。そして十字架は愛と信の接する所であって、再臨は望の実現である。再臨の望に励まされずして、愛と信とは失せやすくある。望は信をあたため愛をひろくする。信仰維持のために再臨の希望は必要欠くべからざるものである。キリスト教道徳といいて、単なる純道徳すなわち道徳のための道徳ではない。明白なる目的あっての道徳である。
 
(中略)
 
 人は初代教会の元気旺盛を語る。それには明白なる理由があった。それは再臨の希望に充ちあふれる教会であった。初代のキリスト信者はただ無意味に信仰に燃えたのではない。彼らが世に勝ったのは、再臨の希望に養われたる信仰によって勝ったのである。今日といえども同じである。この希望に養われずして、文化と共に日々に滅び行くこの俗世界に勝つことはできない。再臨再唱の必要はここにある。」

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2016年7月 5日 (火)

統一教会と再臨論

「統一教会を始めた文鮮明氏のことを再臨主って言うらしいけど、どういう意味?」
「詳しく説明した動画が公開されているよ。イスラエルの歴史と教会の歴史を比較して論じているあたりは興味深いけど、イスラエルの預言でまだのものへの無視があるので、置換神学かなとも思うよ。独自の解釈だけど」
 
「統一教会は名前を世界平和統一家庭連合に変えて存続しているけど、どういう意味があるんだろう?」
「統一教会は独自の再臨観を持っているよ。空中再臨や携挙を認めず、地上再臨だけなんだ。空中再臨の時、信者に、その現れた存在を選択する余地はないんだ。しかし統一教会は、既存の教会に、それを求めてきたのだから、食い違いがあるんだ。しかも、統一教会は置換神学だから、今は自分たちの団体がキリスト教会の後継と見ているかもね。再臨主という言葉は既存教会に向けられた言葉だったんだ。既存教会が、この言葉を受け入れたら、そこに地上天国が出来ると言っていたけど、そうはならなかった。だから統一教会の今の歴史は地上天国ではなく、再再臨主を待望することになるんじゃないかな」
 
「統一教会は置換神学だろうって、どういうこと?」
「既存教会は文鮮明を再臨主と認めなかったということを、統一教会側も認めて、そこから自分たちの歴史を作っているからさ。一時は、統一教会は、既存既存に自らを認めさせようと強烈に働きかけたことがあったんだ」
 
「イスラエル建国は預言の成就という解釈を聞くけど、どうなんだろうか?」
「恐らくそうなんだろう。それを認めるとディスペンセーション主義になるけどね。独自の解釈をしている統一教会は置換神学なんだから、イスラエル建国には関心がないんだ」
 
「統一教会の創立者、文鮮明が再臨主ではないと思っているらしいけど、どうして?」
「統一教会では、再臨を初臨と同じように考えているからさ。ユダヤ人が教会に変わっているけどね。しかし、再臨の時には教会には選択の余地はないよ。教会の中におられる聖霊は再臨主を否定できない。三位一体だから。それに、文鮮明の伝記の中に、16歳の時、祈祷中、イエス・キリストと霊通し、再臨主の使命を継承するようにと召命を受けたとあるんだ。それは文鮮明はキリストではないと、自ら言っているようなものじゃないか。統一教会では、創始者を再臨主って言っているけど、どんな意味なんだろうか。これが教会の再臨のキリストなら、礼拝の対象になるよ。統一教会の人たちは創始者を礼拝しているんだろうか。していないと思うけどね。しかし、再臨に関して、問題提起し、再考を促しているのは、教会としては受け止めた方がいいと思うけど」

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2016年7月 3日 (日)

続・中世雑感

「中世再考と言ったって、暗黒の中世って習ったし、その印象が強いから、振り返る動機がなかなか出てこないんじゃないの?」
「近世、近代の方が身近なんだ。それはそれでいいんだ。近代の反省があれば、それが中世再考の動機になるんだ」
 
「『新しい中世』って、今でも有効な概念なの?」
「世紀の変わり目の時、そんな本が何冊か出ていたね。最近、内村鑑三の研究者の一人が新聞への寄稿で、その言葉を使っていて、ちょっと懐かしかったよ。内村には近代人への批判はあるけど、中世回帰への志向はなかっただろうけどね」
 
「内村鑑三の近代批判は分かるけど、じゃあ次の時代はどうなの?」
「ヘーゲルの弁証法的歴史観から考えれば、中世と近世の総合されたもの、その意味では新しい中世かもね。その時代を招来するのは、中世の神学者トマス・アクィナスかもよ。方法は彼の『神学大全』のやり方だよ」
 
「カトリック教会では、かつて中世の神学者トマス・アクィナスが重視された時代があったけど、第二バチカン後はどうなんだろうか?」
「異端に対する正統信仰の立場が、かつての見方だったけど、今では異説、異論との対し方で、なお見習う点があるだろうね」
 
「ところで宗教改革をどう思うの?」
「大雑把に言えば、中世のキリスト教への不満。特にギリシャ思想と混ざり合って純粋性が失われたと見た。その前のルネサンスはギリシャに帰れと言い、宗教改革はギリシャを排除せよという。ではギリシャとは何か、それが問題。異教なのか理性なのか」

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