2017年1月14日 (土)

再臨主

■「統一教会(旧名)の再臨主には、あちらに誤解があるんじゃないの?」
「キリスト教会は空中再臨を待っているんだ。その時の携挙に教会の選択の可能性なんてない。地上再臨の時には、その地は韓国ではなくてイスラエルなんだよ。そのへんの誤解、混乱があるんじゃないかな」
 
■「あなたにとっての、後世への最大遺物って何なの?」
「それは復活して再臨するイエス・キリストを伝えること。復活だけでなく、再臨も大事なんだ。再臨主がいるという情報は、再臨信仰を少しは考えよという意味に理解している。だって、本当の再臨だったら、教会全体が認めるから」
 
■「再臨主を名乗る人が何人もいるらしいけど、どう思う?」
「ロマ書に、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことはない、と6章9節にあるんだ。再臨主は死んではいけないんだ。しかし、みんな死んでいくと思うよ。あの韓国人も亡くなったしね」
 
■「至福直観って何だろう?」
「再臨のキリストを見つけることじゃないだろうか」

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2017年1月13日 (金)

イスラエル建国

■「イスラエル建国はキリスト教信仰にとって何か意味あるの?」
「以前、それを言う人はあまりいなかったけど、最近、ネットでの伝道メッセージを聞くと、みんな、それを指摘しているんだ。何かが終わり、何かが始まるしるしとして、考え直す必要があるかも知れない」
 
■「あなたにとって、ディスペンセーション主義って何なの?」
「聖書観で置換神学に対立する考え方だよ。置換神学だとユダヤ人に対する祝福はキリスト教会が受け継いでいるので、ユダヤ人の使命は終わったと考えるけど、そうだとイスラエル建国の意味は見えてこないんだ。無視はできないと思うけど」
 
■「初代教会で、ユダヤ人クリスチャンの割礼派の主張がパウロに批判されたけど、現代のユダヤ人クリスチャンであるメシアニック・ジューには、その傾向はないんだろうか?」
「さあ、どうかな。クリスチャンなら、どこかの歴史的キリスト教会に所属する必要があるだろうけどね」
 

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千年王国について

■「セブンスデー・アドベンチスト教会の問題提起をどう思う?」
「解釈の問題は残るけど、再臨信仰の強調には異論はないよ。安息日問題では、ガラテヤ書でのパウロの憂慮を考えるけどね。パウロの相手はユダヤ教徒ではなくて、律法主義的キリスト教徒だったんだよね」
 
■「千年王国の諸説をどう理解したらいいんだろうか?」
「鍵は時代背景かも知れない。最初の教会は千年王国前再臨説だった。アウグスチヌスも最初はそうだったけど、後で無千年王国説に変わった。彼の時代にキリスト教が国教になったが、無説が一番合っていることは理解できるよ」
 
■「千年王国をカトリック教会はどう理解しているんだろうか?」
「フランシスコ会訳聖書の注だと、ローマの大迫害の終わりの時から キリストの再臨までとなってる。しかし、アウグスチヌスの無千年王国説を採用したと言われているけど、それだと教会時代に重なり、開始の時がずれているんじゃないかな」
 
■「千年王国後再臨説と無千年王国説は違うの?」
「一応は違うんだろうけど、千年王国後再臨説だと、どこから千年王国が始まったのかが問題になるだろう。カトリックだと公式には無説だけど、フランシスコ会の聖書だと、キリスト教公認あたりから千年王国が始まっているんだ」
 
■「千年王国はキリストの地上再臨があって、それから始まるの?」
「今、そう言う人が多いかもね。しかし、無千年王国だと、今が千年王国だ。『千年王国を夢みた革命』(岩井淳著、講談社選書メチエ)だと、17世紀英米のピューリタンに関心が高かったらしいよ。参考になるかも」
 

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2016年7月16日 (土)

「再臨再唱の必要」

 内村鑑三は、『聖書之研究』の最終号(1930年4月)に「再臨再唱の必要」という文を載せています。再臨運動が終わって、もう10年も経っています。内村の永眠の10か月前に執筆され、死後に発表されたものです。その中で、再臨運動を終えた理由と、なお、その信仰の必要を語っています。これは、『内村鑑三信仰著作全集 13』(教文館)に収録されています。重要な資料と思いますので、その一部を紹介します。
 
「再臨再唱の必要
 私は長らくキリストの再臨を説かなかった。それは再臨を忘れたからではない。もちろん、その信仰を捨てたからではない。わが国の信仰状態において、私が先年なした以上にこれを説くの必要を感じなかったからである。さらにまたその危険を感じたからである。再臨は聖書の中心真理と言わんよりはむしろその最終真理と称すべきである。再臨は聖書の結末である。ゆえに聖書のすべてがわかって後に、少なくともその大体がわかって後に、わかるのが再臨の教義である。しかるに、そのあまりに壮大壮美なる教義であるがゆえに、人は初めてこれに接してその肝をひしがれ判断を乱されやすくある。世にいわゆる「再臨狂」の多きはこれがためである。私はキリストの再臨を説いて、多くの悲しむべき再臨狂の実例に接した。ことにこれを敏感な婦人において見た。法は人を見て説くべしであって、再臨の教義を受くる準備なき者にこれを説くは大いに慎むべきであるを知った。
 その点において十字架は再臨よりもはるかに安全である。十字架は神の義の現れである。ゆえに直ちに人の良心に訴う。キリストの十字架は倫理学最後の結論としてこれを唱道することができる。ゆえにその迷信化さるる危険がはなはだ少なくある。さらにまた十字架がわからなければ再臨はわからない。十字架は再臨の前提であって、十字架に出発して初めて安全に再臨に達し得るのである。キリスト教は烈しい倫理教である。それであるがゆえに、キリストの再臨、万物の復興というがごとき絶大壮美の終極に達するのである。十字架なき所に冠なし。十字架を経験せずして、再臨の希望の起こらないのが当然である。されども何びとも十字架はこれを避けんと欲し、冠はこれを戴かんと欲するがゆえに、十字架の苦杯を飲まずして再臨の饗宴にあずからんと欲す。ここにおいてか迷信百出し、再臨狂が続出するのである。キリストの再臨の教義が世に忌まれ識者に卑しめらるる理由はここにある。これを信ずる準備なき者がこれを信じ、唱うるの資格なき者がこれを唱うるからである。そして再臨が侮辱せらるる時に十字架に退却するの必要が起こる。そうして十字架の要塞に拠りて再臨の楽土を開拓せんとする。
 言うまでもなく再臨は聖書の基礎的教義である。再臨を否んで、聖書はわからない。もし十字架が聖書の心臓であるならば再臨はその脳髄であろう。再臨なくして、十字架は意味をなさない。それゆえに、われらクリスチャンは再臨の立場に立ちて聖書を通覧するの必要がある。目を十字架のみに注集して、われらの眼界が狭くなり、したがって信仰が冷却しやすくなる。信望愛は相互をささえ扶くる。そして十字架は愛と信の接する所であって、再臨は望の実現である。再臨の望に励まされずして、愛と信とは失せやすくある。望は信をあたため愛をひろくする。信仰維持のために再臨の希望は必要欠くべからざるものである。キリスト教道徳といいて、単なる純道徳すなわち道徳のための道徳ではない。明白なる目的あっての道徳である。
 
(中略)
 
 人は初代教会の元気旺盛を語る。それには明白なる理由があった。それは再臨の希望に充ちあふれる教会であった。初代のキリスト信者はただ無意味に信仰に燃えたのではない。彼らが世に勝ったのは、再臨の希望に養われたる信仰によって勝ったのである。今日といえども同じである。この希望に養われずして、文化と共に日々に滅び行くこの俗世界に勝つことはできない。再臨再唱の必要はここにある。」

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2016年5月28日 (土)

千年王国はいつから?

「ヨハネの黙示録に『千年王国論』というのがあるけど、カトリック教会はどう解釈しているんだろうか?」
「里脇浅次郎著『カトリックの終末論』(聖母文庫)では、千年というのは不限定の継続を示す象徴的な数字で、キリストの来臨から世の終わりまでの地上における神の国の全期間、と言ってるよ」
 
「『千年王国論』には、プロテスタントではいくつかの解釈があるんじゃないの?」
「文字通りの解釈もあるみたいだ。しかし、カトリック教会は1941年と44年の二回、それらを斥けたらしい。教会文書集3839にあるらしい」
 
「カトリック教会の『千年王国論』解釈は分かったけど、フランシスコ会の『新約聖書』の注解だと、最初はローマの大迫害の終わりの時から、になってるよ。教会の公式見解とずれているんじゃないの?」
「確かに言われてみればそうだね。何故かは分からないけど」

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2015年9月17日 (木)

再臨問題の資料

「再臨問題では、内村鑑三らの再臨運動が知られているけど、何か資料はあるの?」
「鈴木範久さんの『内村鑑三日録10 再臨運動』(教文館)があるよ。その他、黒川知文さんの『内村鑑三と再臨運動』(新教出版社)もある。
 古いところでは、内村鑑三の『基督再臨問題講演集』(岩波書店、大正7年)があるんだ。神田のキリスト教専門の古本屋、友愛書房で、最近、この本があるのを見たんだけれど、昨日(9月16日)に見てみたら、なかった。
 しかし、この本は、国会図書館にはマイクロフィルムのかたちで見ることができるよ。参考に、目次にある内容を紹介しておこう。

①聖書研究者の立場より見たる基督の再臨●
②馬太傳に現はれたる基督の再臨●
③七福の解
④世界の平和は如何にして来る乎●
⑤信仰の三段階
⑥基督再来の欲求
⑦世界の最大問題●
⑧基督の復活と再臨
⑨約斡傳に於ける基督の再臨
⑨天然的現象として見たる基督の再臨●
⑩基督再臨の証明者としてのユダヤ人●
⑪聖書の預言とパレスチナの恢復●
⑫再臨信者の祈祷として見たる主の祈祷
⑬イエスの変貌
⑭ラザロの復活
⑮ツル-ベツコイ公の十字架観
⑯馬太傳第十三章の研究
附録
①平和の告知
②身体の救拯●
③万物の復興
④聖書の証明
⑤基督再臨を信ぜし十大偉人●
⑥余が基督の再臨に就て信ぜざる事共●
(●は、「内村鑑三信仰著作全集 最後審判・再臨・復活・天国・来世」⑬に収録されているもの)

 その他、内村鑑三記念講演会でも、取り上げられていると思うよ」

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2015年9月15日 (火)

「再臨問題研究会」

長く、このブログにはご無沙汰していました。ツイッターに心を奪われていたからです。しかし、ツイッター熱も、ようやく醒めてきたようです。そこで、再び、このブログに目を通すようになりました。
最近、「再臨問題研究会」という言葉が心にひっかかっています。再臨運動というと、内村鑑三、中田重治が思い出されます。中田の場合には、日ユ同祖論や、ホーリネス弾圧、教会の分裂など、再臨問題は大きな問題を教会に与えました。内村の場合は、数年の再臨運動を終えて、この問題から手を引いたように見えても、最後の、没後発行の『聖書の研究』には、この信仰の継承を願っています。
この再臨問題に関しては、再臨待望同志会という会があります。福音派の強力なリーダーであった森山諭牧師が思い出されますが、今でも活動しているようです。また、テレビ伝道に長く従事してきた方も、ユダヤ人問題との関連を取り上げて、新たに再臨問題を提起しています。
今、振り返って、再臨に関して、いろいろな問題があるように思われます。そこで、問答の形で、この問題を取り上げていけば、信仰の知解を深めることにつながるように思います。

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2013年10月 9日 (水)

ジョナサン・エドワーズの後千年王国説

 『北陸大学紀要』(26号、2002年)に、「ジョナサン・エドワーズの終末論」(村上良夫)という論文がある。そこには、こんな記事がある。
 「さらにエドワーズは、われわれは祈りによって、説教によって、そしてあらゆる伝道の働きによって、キリストの王国の到来を促進し、千年王国の到来を早めることができると信じる」(103頁)
 千年王国の到来は再臨とも関係しているのであろうが、このような言葉は、大衆伝道者であった本田弘慈氏も言っておられた。しかし、本田氏は、エドワーズ同様に千年王国後再臨説の人であったかといえば、いや、千年王国前再臨説の人であったように思う。
 更に、このような記述もあった。
 「通常の歴史を超えた千年王国の到来ではなく、通常の歴史の展開の中での千年王国樹立を言明したエドワーズの思想は、歴史の発見、歴史の意味の発見という意義を有すると考えられるのである」(105-106頁)
 ここにも、後説の特徴が見られるように思う。しかし、それはいつなのであろうか。その時には、当然、再臨があるのであろう。エドワーズは、そのことをどう考えていたのだろうか。教会の通常の活動の彼方に千年王国を期待するといっても、そこに再臨があるのであれば、そこではやはり、通常の教会の歴史が終わるのではないだろうか。エドワーズにおける再臨の転機が、まだよく分からない。
 そんな問いを感じたのだが、それはやがて答えられることになる。千年王国の前に再臨はないのである。ということは、いつから千年王国が始まるのであろうか。千年王国を未来に待望するといっても、その到来の時点をどう理解したらいいのだろうか。それも謎である。

 もう一つ、別の文献がある。それは『アメリカの宗教伝統と文化』(井門富二夫編、大明堂)である。そこでは、「ジョナサン・エドワーズとミレニアリズム」(野村文子)という論文がある。
 「キリストが再臨してこの世を統治するという千年間をミレニアムと呼び、いつか来るとされる未来の正義と平和と自由が世をあまねく支配する千年王国を唱える思想をミレニアリズムと言う」(169頁)
 21世紀に入るころ、この思想に関心が高まったのを覚えているが、アメリカに起きた事件によっ、なにか吹っ飛んでしまったようであった。
 ただ、この本には、面白いことが書かれている。それは飯島徹氏が「西暦2000年頃、千年王国が地上に出現するとエドワーズが考えていた」ことを明らかにしている、という記述である(176頁)。西暦2000年はもう過ぎてしまったが、千年王国は出現したのであろうか。          さて、この後説はエドワーズによる影響が強いらしい。「ピューリタンをはじめ、当時の人々は圧倒的に前千年王国説を信じていたが、18世紀の中頃に後千年王国説に傾いていった。この変化に最も功績があったのは、独立戦争前のアメリカの指導的神学者、ジョナサン・エドワーズである」(178頁)とある。
 この二つの説の特徴を比較して、論者は、こう説明している。
 「救済前の滅亡と破局を預言する前千年王国説は労働者に現実からの撤退を勧め、一方、後千年王国説は労働組合主義や過激な社会改革を正当化する武器に用いられた」(175頁)
 エドワーズと言えば、第一次大覚醒の指導者でもあった。そこでは、異常なことが起きた。やがて、その時は終わったが、それを経験したエドワーズは、逆に通常の事柄を重視して、それに意味づけをする必要を感じたのではないだろうか。こんな記述もある。
 「彼は教会の努力によって千年王国が打ち立てられた後にキリストが再臨するという立場をとり、教会の歴史と千年王国を連続して理解しており、その手段を福音の広がりに求めている」(181頁)
 エドワーズにとって、千年王国はまだ始まっていないのである。千年王国の終わりに再臨があるという。では、いつから千年王国が始まるのか、何がその目印になるのか、その疑問がどうしても残ってしまう。

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2012年9月 2日 (日)

新渡戸稲造誕生

9月1日(1862年)、教育者、思想家、新渡戸稲造誕生。享年71。札幌農学校を卒業後、米国留学中にクエーカー教徒に。国際連盟事務次長を務めた。

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2012年2月28日 (火)

『基督再臨説を排す』を読む

国会図書館で、富永徳磨著『基督再臨説を排す』(警醒社書店、大正8年7月13日)を読んだ。そのあと、これに対する反論である畔上賢造著『基督再臨の希望 富永徳磨氏の再臨排撃論を駁す』(警醒社書店、大正8年10月10日)も読んだ。

内村鑑三らの再臨運動には関心を持っていたが、その時に必ず出るのが、富永徳磨の反対論である。今まで、関心はあったが、読む機会がなかった。

富永は、『基督再臨説を排す』で、霊的再臨と有形的再臨に区別するが、畦上賢造は『基督再臨の希望』の中で、霊的再臨は聖霊降臨と言った方がよいという。確かにその通りだ。畦上は、再臨派は霊的再臨を知らないという富永に対して、事実と違うと指摘。この点では畦上の勝ちだろう。

しかし、「要するに富永氏は或一部の再臨熱狂家を見て、再臨信仰そのものを見ないのである」と畦上はいう。ということは、部分的には当たっているという指摘を含んでいる。

内村鑑三は富永の本が出た時、自分への挑戦状と思ったのかも知れない。そこで、過激な反応が生まれたのだろう。しかし、この書は、再臨運動の中にいて、信仰の本質を誤っている人々への批判としては有効であったのではないだろうか。内村は運動を終える時、それを知ったのだろう。『聖書之研究』の最終号で、再臨信仰の継続を提唱しているが、そこには、運動収束の理由として、富永の指摘したような危惧があったと指摘しているのである。

しかし、もちろん、再臨信仰の中の何が誤りなのか、それは課題でもある。

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