2014年4月11日 (金)

ケーベル先生が紹介されました

R・ケーベルの紹介を載せた本が出版されました。『日露異色の群像30-文化・相互理解に尽くした人々-』(長塚英雄責任編集、東洋書店)で、「哲学、西洋音楽の普及に尽くしたケーベル先生」とのタイトルで、小松佑子さん(チャイコーフスキイ研究家)が書かれています。

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2012年8月28日 (火)

夏雲

青空に 夏雲浮かぶ 凄さ消え 間もなく別れ 今度はホント

ふうふうと あえぎ歩きて 空見れば 夏雲がする 力自慢を

夏雲に 我は問いたし 汝は何 言いたいのかと 我は問いたし

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2012年6月 1日 (金)

「日本カトリシズムの再生」をテーマに講演会

上智大学キリスト教文化研究所の第40回連続講演会が6月16日(土)~17日(日)、上智大学中央図書館9F901会議室で開かれます。

テーマ「日本カトリシズムの再生」。

16日=
「近代日本におけるカトリック文学-吉満義彦から須賀敦子まで」若松英輔(シナジーカンパニージャパン代表取締役、批評家)
「近代日本における哲学・キリスト教学と岩下壮一」黒住真(東京大学大学院教授)
「神谷美恵子-魂の認識への献身と人間の宗教性」釘宮明美(白百合女子大学准教授)

17日=
「西田哲学とキリスト教」田中裕(上智大学教授)
「九鬼周造とキリスト教」川中仁(上智大学准教授)

1日チケット=1000円(学生割引あり)。

(ポスターを見たので紹介します)

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2012年5月24日 (木)

ケーベル先生の墓参

毎年、雑司ヶ谷霊園のケーベル先生の墓参を、命日にあたる6月14日前後にしています。今年は、6月10日(日)午後2時にケーベル先生の墓に集まり、掃除をすることになりました。希望される方は、ご連絡ください。連絡先は、 VEM15720@nifty.ne.jp

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2012年3月26日 (月)

「救われた」という言葉

回心体験、入信体験の歓喜を「救われた」という言葉で表現することがある。これは過去形である。確かに、その時があったのだろう。

しかし、この言葉を現在進行形で告白し続けなければならない。その告白があった時、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にあるような、二重予定におののく心理が信徒の中に生まれたであろうかという疑問が生まれる。「救われた」を現在進行形ではなく、過去形で表現してしまった時、それが出てくるのかも知れない。

聖霊降臨にも、同じことが言えるのではないだろうか。それは過去のことでもあれが、現在も続いているということを言わなくてはならない。

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2011年10月18日 (火)

シンポジウム

「近代日本における求道と霊性 井筒俊彦、吉満義彦、岩下壮一」をテーマに、10月22日(土)上智大学図書館911号室で、14時から19時まで、シンポジウムがあります。上智大学教育イノヴェーション・共生学研究会共催。入場無料。

報告=若松英輔(井筒俊彦論、14-15時)、鶴岡賀雄(吉満義彦論、15-16時)、黒住真(岩下壮一論、16時20-17時20)。特定質問者=山本芳久、川村信三。会場との質疑応答タイムがあります。

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2011年9月19日 (月)

宣教の前提

大宣教命令という言葉がある。復活したイエスが弟子たちに福音を伝えよ、と言われたことをさす。しかし、これは、ある意味、福音という知識の伝達であろうが、一般のそれと違う面もある。聞く人は知識と共に、伝える人を見ている。神の恵みに満たされているかどうかを。

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2011年2月16日 (水)

「天は自ら助くる者を助く」

「天は自ら助くる者を助く」という格言がある。最初、その意味がよく分からなかった。日本語の訳としては、余りよくないのではないたろうか。英語では、誤解はないと思う。

英語では、Heaven helps those who help themselves. である。要するに、自分で努力する者に天は援助を与える、という意味である。

日本語の訳が、なぜ紛らわしいかと言えば、「天は自ら」の「自ら」が、本当は「自らを」と言わなければならないのを、「自ら」というので、これが主語の「天」にかかる言葉ではないかという疑いが起きるからである。「を」の一字であるが、これがあるのと、ないのとでは、大きな違いが起きてしまう。しかし、「を」を入れてしまうと、日本語としては朗読に耐えないということになってしまうのだろう。

要するに、この格言は、キリスト教神学的に言えば、半ペラギウス的な解釈が正解なのである。神人協力説であり、第一歩は人が踏み出せと言っているのである。

ところで、こんな意味のあいまいさから来る興味深いエピソードがある。

明治学院院長であった故武藤富男氏が小学6年生の時、この格言の解釈を問う試験が出て、「自ら」を「天」にかけた解釈を書いたという(『社説三十年 第一部』武藤富男著、キリスト新聞社、93頁)。結果は零点であった。

武藤氏は、予定説的解釈をしたと書いているが、日本語訳では、そういう解釈もありうるのではないかと思う。

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2010年3月28日 (日)

狭い国で

日本に  生まれて  ここに死ぬるかな 
  世界は広し  されど知らずに

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2010年1月31日 (日)

女性の二面性

イエスの母マリアへの祈りが天使祝詞である。しかし、マリアは神でもないし、救い主でもないし、女神でもない。ただ、イエスへの関係の中で、特別の存在である。

マリアを思う時、それはイブとの関係の中で考えるべきではないだろうか。そこに、女性の二面性を洞察することができる。女性は滅びへのきっかけでもあり、また救いへのきっかけでもある。その一方のみを見る時、女性を誤解することになるのだろう。女性の中には、マリアもいれば、イブもいるのだから。

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