2011年10月 9日 (日)

ピウス12世没

10月9日(1958年)、ローマ教皇、ピウス(ピオ)12世没。享年82。祖父がバチカン日刊紙「オッセルバトーレ・ロマーノ」の創刊者。ドイツのヒトラー政権時代の教皇で、その対応で批判されたこともあるが、ユダヤ人を保護した面もある。

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2011年1月24日 (月)

織江の唄

NHKのラジオ深夜便で、五木寛之さんの話「わが人生の歌語り」を長く、感銘深く聴いていた。その中で、五木さんの著書『青春の門』から「織江の唄」が作られたことを知らされ、山崎ハコさんの歌を聞いた。作曲・山崎ハコ、作詞・五木寛之、歌・山崎ハコであった。独特の声と思った。何か忘れられない印象も受けた。情景が浮かんでくるようで、歌詞も心に残った。

今日、書店に行くと、『青春の門』が第一部から第四部まで文庫本で並んでいた。この本は、何か暗い感じがして、読むのをためらっていた。自分自身が、どこか暗い性質なので、余り暗い小説を読むと、気が滅入ってしまうのではないかと思われた。しかし、暗さのない、ただ明るいばかりのものにも、深みを感じることがなく、こちらも敬遠している。暗さと明るさが、適当に混じっているのがよい。

自宅近くのTUTAYAで、山崎ハコさんのCDを借りてきた。もちろん、「織江の唄」も収録されていた。山崎さんも、どちらかというと、暗い感じが漂っているのかも知れないが、声が独特で、時に迫力もあり、印象に残る歌手である。

五木さんの話を聞かなければ、「織江の唄」も聞く機会がなかったであろう。しかし、まだ、織江の物語を読もうと気にはなっていないけれど。

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2011年1月 5日 (水)

聖霊を汚す

NHKラジオ深夜便で「深夜便のうた」として紹介された「明日の朝、神様がいらっしゃるよ」の中に、こんな歌詞があります。

「明日の朝 神様がいらっしゃるよ
愛を汚した罪人たちに
剣の裁き下しに」

厳しいなあ、と思いました。しかし、聖書の、あの個所を思い、同じようなものだろうと思いました。聖書には、こうあります。

「また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」(マタイ12・32)

「また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない」(ルカ12・12)。

聖書では、聖霊とあり、歌では愛とあります。この二つは一つといってもいいかも知れません。「神は愛なり」と言うのですから。

神に生きるとは、愛に生きること、そして、愛に生きるとは、神に生きること。この二つは同じことなのだろうと思います。

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2010年12月29日 (水)

「明日の朝、神様がいらっしゃるよ」

NHKラジオ深夜便で歌われている「深夜便のうた」の中、「明日の朝、神様がいらっしゃるよ」(作詞:岡本おさみ 作曲:宮川彬良 歌:ことのみ児童合唱団)の歌詞は、次のようなものです。

明日(あす)の朝 神様がいらっしゃるよ
森の木立をぬけて注ぐ
光の道を通って

明日の朝 神様がいらっしゃるよ
遠い約束 果たすために
光の中へ もうすぐ

苦しみはもうない
悲しみはもうない
ロバを連れて、迎えに行こう
風が走る 草原に
風が走る 草原に

明日の朝 神様がいらっしゃるよ
愛を汚した罪人たちに
剣の裁き下しに

明日の朝 神様がいらっしゃるよ
野いちご齧(かじ)る 唇で
歓(よろこ)びの歌 歌おう

明日の朝 神様がいらっしゃるよ
欅(けやき)のような足で踏みしめ
あの丘の上に登ろう

嵐はもう来ない
吹雪ももう来ない
ロバを連れて、迎えに行こう
風がはしる 草原に
風がはしる 草原に

明日の朝 神様がいらっしゃるよ
涙の跡を癒(いや)すために
血が流れた草原に
血が流れた草原に

ロバを連れて、迎えに行こう
風が走る 草原に

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2010年11月 8日 (月)

ろば

聖書には、「ろば」の役割りが明瞭に書かれています。

イエスがエルサレムに入った時、ろばに乗られました。しかし、それは旧約聖書の預言(ゼカリア書)の成就という意味であったと解釈されています。新約聖書の四福音書のいずれにも書かれています。しかし、アブラハムがイサクをささげようとした時にも、ろばが登場しています。聖書の物語の重要場面に登場するのが「ろば」です。

「明日の朝、神様がいらっしょるよ」の歌詞に、どうして「ろば」が出てくるのか、多くの日本人には不可解かも知れません。しかし、聖書に親しんでいれば、それはよく理解できます。あるいは、作詞者には、そのような背景があるのでしょうか。

聖書(口語訳)の引用をします。

「アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた」(創世記22・3)

「シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る」(ゼカリア9・9)

「ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった」(マタイ21・7)

「そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった」(マルコ11・7)

「そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした」(ルカ19・35)

「イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは…」(ヨハネ12・14)

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2010年11月 7日 (日)

歌詞の感想

「深夜便のうた」で、今流れている「明日の朝、神様がいらっしょるよ」の歌詞は長いのですが、その中から、一部、思うところを記します。歌詞には聖書的な内容を連想させるものも感じています。

「明日の朝、神様がいらっしょるよ 遠い約束 果たすために 光の中へ もうすぐ」

確かに、もう2000年も経ちました。再臨の約束は、遠い昔の約束なのです。そして、光の中に来る、という。すべてが光に照らされて、明らかになるという意味なのかも知れません。

「苦しみはもうない 悲しみはもうない ロバを連れて、迎えに行こう 風が走る 草原に 風が走る 草原に」

苦しみ、悲しみがないということは、神の国、天国の実感なのでしょう。しかし、天国というと、死んでから行くところとか、地上ではないという思いと結びつくかも知れませんが、再臨には、そんな観念はなく、この地上に神が来られるという発想でしょう。

ここで、ロバが出てきます。イエスがエルサレムに入った時に乗っていた動物がロバでした。その状況と重ねているのではないでしょうか。再臨のイエスもまたロバに乗られるという意味で。しかし、そうなるかどうか。ただ、人間の側で「迎える」という姿勢を意味しているのかも知れません。

そして、風が出てきます。風は聖霊の意味かも知れません。再臨と聖霊は関係があるという意味かも知れません。

「明日の朝 神様がいらっしゃるよ 愛を汚した罪人たちに 剣の裁きを下しに」

「愛を汚す」とありますが、これが最終的な罪の構成要因なのかも知れません。「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない」(マタイ12・31)。聖霊は神であり、神は愛であると考えれば、愛を汚すことは、許されない罪を構成することになります。

そして、このような裁きがあるということは、最後の審判を予想させるものではないでしょうか。

「明日の朝 神様がいらっしゃるよ 涙の跡を癒すために 血が流れた草原に 血が流れた草原に」

人間の罪の結果である悲惨という現実の真っ只中に、神は来られるということでしょうか。

こういう歌詞が、深夜便に流れているということは、感謝です。

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2010年11月 1日 (月)

再臨待望の歌

NHKのラジオ深夜便で、いま、「深夜便のうた」として、「明日(あす)の朝、神様がいらっしゃるよ」が、ことのみ児童合唱団により歌われています。曲は、岡本おさみ作詞、宮川彬良作曲です。いろんな聞き方があると思います。

歌詞を全部、確かめたわけではありませんが、キリスト者にとっては、再臨待望の歌ではないでしょうか。こんな歌が賛美歌や聖歌にあってもいいかなと思います。

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2009年11月27日 (金)

奇跡の解釈

「すべての人が食べて満腹した」(マタイ14・20)

聖書の個所は、五つのパンと二匹の魚で、男5000人が食べて満腹したという有名な個所である。マタイ以外にも、ルカ、ヨハネの各福音書にも記されている。これを奇跡と受け取る人にとっては、ありえないという事実の謎への理性的要求は拒否されている。神のなさることであるから、合理的に考えることは間違っていると、そういう意味で奇跡を考える人もいるかも知れない。

しかし、この物語の意味は、そのような奇跡なのだろうか。11月26日、と27日のNHKラジオ深夜便で、日本キリスト教団の伊豆・松崎教会の星野正興牧師が語ったところでは、奇跡ではない。なぜなら、「五つのパンと二匹の魚」は、最初に差し出されたもので、その後、イエスの周りに集った多くの人たちが、食物を差し出したのだという解釈をされた。そこで、分かち合いが行われたのである。それらが記述されていないだけである。恐らく、「五つのパンと二匹の魚」は、その象徴として書かれているのだろう。私は、この解釈を採用したい。反論があれば、その時、また考察しよう。

星野牧師は、賀川豊彦のお弟子さんに学んだことがあるという。賀川の精神は、協同組合の精神に生きているといわれている。社会主義に共鳴しつつも、キリスト教に立つ精神的価値を強調して、唯物論的社会主義には向かわず、逆に排斥された賀川の取った道は協同組合思想であった。資本主義でもなく、社会主義でもなく、第三の道であり、助け合いの道である。「五つのパンと二匹の魚」の物語は、その協同組合の理想を語っているようにも思われる。現在の鳩山首相の友愛精神も、それに近いのだろうか。

それにしても、星野牧師の二回の話に魅了された。この人の本を読んだことはないが、教えられるところは多かった。感謝。

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2009年4月17日 (金)

良寛の世界

昨日と今日の二回、NHKラジオ深夜便の「こころの時代」で、作家・新井満氏が、最近、出された自分の自由訳を朗読しつつ、良寛の世界を紹介された。

良寛の生き方には「知足」と「楽しみ」の両方があるとのこと、それを結論として指摘されたが、大切な点と思った。「知足」だけでも、「楽しみ」だけでも、良寛理解は不十分で、その両方が結びついている世界が、良寛の真の世界なのだということが分かって、深く共鳴した。日本のフランシスコのような印象を持った。自分の新潟地震の体験と共に、良寛の世界を説明されていく過程など、聴取者たちは深く納得されたのではないだろうか。

新井氏が芥川賞を受賞された時、私は取材で、式に同席した。残念ながら、小説は読んでいないし、その後も余り、その仕事に関心を持っていなかった。「千の風になって」で、新井氏の世界の一端をのぞかせてもらったような気がしたが、今回の「こころの時代」を聞いていて、宗教的な領域に題材を探している作家なのだということが分かった。今後のご健闘をお祈りします。

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2009年2月 9日 (月)

耳の話

■その1

秀吉によって逮捕された
二十六人のキリシタンたち

長崎に連行される時、
耳を切られたという

諏訪大社での御頭祭で
犠牲の鹿の耳が切られるという

耳切り
はて、どんな意味だろう

1597年(慶長2)、秀吉の命令でキリシタンの26人が長崎で処刑されました。最初、捕らえられたのは24人で、その時、秀吉は「見せしめに耳と鼻を削ぎ、町々を引き回せ」と命じます。

残酷なことをするものだと思いました。「耳と鼻を削ぐ」とは、どういうことなのか、また、なぜなのか、と思いました。

しかし、実際は、1597年1月3日、京都の上京一条の辻で、左耳たぶだけを切られたのだということです。これは、サン・フェリペ号のランデチョ船長からの懇願があり、石田三成が、左耳たぶだけを切るように命じたということです。(『旅する長崎学 3』長崎文献社、4頁)

遠藤周作氏は中公文庫『切支丹の里』で、「彼等は1597年、慶長2年に京都の辻で左の耳を少し切り取られた後、…」(17頁)と書いています。

三成は、よいことをしたと思います。

■その2

ピアスが普通の風景になっている日本だが
人は、なぜ、ピアスをするのだろうか
   
そこには自虐趣味の快感が走るのだろうか
それとも、もっと深い意味があるのだろうか
   
その昔、モーセが十戒を民に告げた時
奴隷解放の規定もあった
   
「ヘブライ人の奴隷を買った時、6年間、労働させることができる
しかし、7年目には無償で解放せよ」
   
しかし、中には、解放を望まぬ奴隷もいた
「私は自由の身になる意志はありません」

その時、奴隷の主人は、彼の耳を錐で刺し通し
生涯の奴隷としたという(出エジプト21章)
   
ここにピアスの原点があったかどうかは知らないが
あの時、ピアスは奴隷のしるしであったのだ
   
しかし、奴隷もよき主人にめぐり合えば
一生、幸福でいられるだろう

■その3

NHKのラジオ深夜便で、深夜便の歌が流れている。もう2年前になるが、2007年3月のころ、「恋 はるか」が流れていた。本当にいい歌だ。その3番に、ピアスという言葉が出てくる。秋の歌で、別れを歌っている。あなたの真実が見えなくなった。それをピアスを探すという動作の中で表している。ピアスは、その人の真実の心を意味しているのだろうか。旧約聖書の、あの「誓い」を思い出す。

「恋 はるか」には、春夏秋冬があり、春が出会い、夏が新婚生活、秋が別れ、冬が再会となっている。再会は、新しい希望につないでいるのかも知れない。しかし、別れが何か悲痛である。

『ラジオ深夜便』2007年4月号には、作詞者の喜多條忠(きたじょう・まこと)氏のエッセー「『神田川』から『恋 はるか』まで」が載っている。そこに「離婚も経験した」と書かれていた。この詞は、ご自分の人生とだぶっているのかも知れない、とも思った。

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