2017年1月 7日 (土)

終活

「終活で、何が大事?」
「あなたの見ている人が困らないように、それが一般的な動機なんだろう。しかし、あなたは気づかないだろうけど、あなたを見ている人も大勢いるんだ。そういう人に何を残すかも大事なテーマなんだ。要するに、後世への最大遺物を考えることだ」
 
「終活の課題って何かな?」
「葬儀の仕方とか遺産の処理とかが一般的かも。しかし、後世への最大遺物を何にするか考えることかもね。それは、今、どう生きるかだけど、それが遺産になると気づかない人が多いだろう。自分の生き方が他人にどんな影響を与えるか、自分には分からないから」
 
「今日も救急車の出動があったけど、終活にお勧めの本はある?」
「『こわくない』(立花隆著、文藝春秋)がいい。分かりやすく、死の問題を扱っている。死を絶望から希望に転換することが、終活の課題だろう」
 
「『その日、その時は、だれも知らない』。その聖書の言葉の意味は何?」
「再臨の時なんだろう。しかし、それをテーマに説教するのは難しいよね。だから、すべての人が必ず経験する自分の死に置き換えて、話すのかも」
 
「クリスチャンにとっての終活のゴールはどこ?」
「パウロの、あの心境かな。『今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです』(第二テモテ4.8)。人は誰もが死に向かって進んでいるけど、どんな心でいるべきか、それが大切だよ」
 

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2010年6月10日 (木)

生と死

悲しみの 日々を送りて 死は望み
 悲しみ終わる 喜びの日ぞ

自殺者の 悲劇対応 如何ならん
 死の意味を問え 避けることなく

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2010年5月30日 (日)

自殺について

自分の死について考えることはよいことである。なぜなら、人はみな、やがて死ぬからである。心の準備なくして死を迎えることの不幸を、ある人たちは知っている。それは最後の審判を思うからであり、残された人たちにトラブルを残すのであれば、心残りであろうからである。

さて、人はやがて死ぬ。どんな状況が、そこにあるのだろうか。病気、事故、自殺、死刑、そんなところであろうか。一番可能性の高いのは病気であろう。これから逃れることのできる人はいないからである。最近は自殺も大きな社会問題になっている。

私は自殺で人生を閉じることになるのだろうか。未来のことは分からないが、自殺というのは、生きている意味を喪失した時に選択されるものではないだろうか。しかし、信仰者にとって、生きる意味の喪失は、果たしてありうるのだろうか。

吉満義彦のドイツ語の詩が知られている。「私はもう思索することができない。ただ祈るのみである」、冒頭、そんな意味の詩がある。

思想家として立っていた吉満にとって、思索ができないということは、生きる意味、理由を失うほどの重大な問題ではなかったか。それはまた、もう死期が間近という時を指していることかも知れない。しかし、そこでも自殺は選択されてはいない。「ただ祈るのみ」という。祈りという勤めが残されているからである。

体の自由がなくなっても、祈る自由は残されている。死の直前においても、人には祈る自由だけは残されている。最後は、祈りのみになるのであろう。そして、祈りは「労働」であり、「義務」でもある。

では、何を祈るのか。私は、再臨を祈る。再臨は新生のためではない、聖化の完成のためである。そして、人類史とは聖化の過程にあるからである。人類史を、その終末にまで導く力、それが再臨待望の祈りではないだろうか。

たとえ、人間的には死んだも同然に見えていても、再臨待望の祈りは、神の目には最も能動的な人間の活動と見えるかも知れない、と思う。

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2010年4月26日 (月)

遺言のこと

最高裁長官も務めた故藤林益三さんが、毎年元旦に遺言を書き改めているという話を本で読んだことがあった。死の準備として、よい習慣と思うけれど、私は、少し別の習慣を提唱したい。

元旦に遺書を書くのは、まだ死が未来のいつかを明確には意識してはいないのだと思う。しかし、いつ来るか分からない死の時、それを未来のどこかに設定すれば、そこから現在の生き方が有意義なものに転換されていくのではないだろうか。

内村鑑三の本に「一日一生」というのがある。一日が一生であれば、明日は死ぬ日である。しかし、それでは、余りにも短か過ぎる。一年では、どうであろうか。来年の元日に書く遺書を、今年は書きつづけるわけである。老年は、そんなふうにして生きていきたい。

しかし、若い人には、これは無理であろうし、試行錯誤の生き方でもいいのかも知れない。老病は誰にでもやってくる。早いか遅いかの違いだけだ。老病は、人の生き方に影響を与える。それは不幸ばかりではないと思う。

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2010年2月 7日 (日)

死支度

死支度  響き不吉に  聞こゆれど
 忘れる人の  生や不可解

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2010年2月 3日 (水)

復活の二義性

死に勝つ意味の復活があり、最後の裁きの前にあるという全人類の復活もある。この2つは、同じ復活でも、意味が違うのではないだろうか。

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メメント・モリ

きらきらと  光る世にあり   うつむくは
  死の意味を問う   声なきが故

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2010年1月10日 (日)

弔辞・遺言運動

小学生のころ、友だちの家で、お葬式ごっこといった遊びをした。私は死者になった。少し涙が出た。この遊びは長く忘れていたが、意識の底に眠っていた。こんな遊びも死を思うきっかけになるかも知れない。

子どものころ、死は怖いものであった。死の彼方が分からなかったからである。不安という意味の怖さと言ってもいいかも知れない。

映画「おくりびと」が注目された。葬儀やさんの物語である。肉体の死をめぐる物語である。しかし、肉体の死は、キリスト教的に言えば、魂の死への警告としての意味を持っている。そして、その意味を知らせることができた時、肉体の死の役割は終える。

生きることと死ぬことは切り離しえない。生きることを求めていても、人はやがては誰もが死ぬのである。この事実に目をつむることは出来ない。そのために、お葬式ごっこも、映画「おくりびと」も意味があるかも知れない。

「死を忘れるなかれ」が、その目的である。そして、その中から、生きることの意味を探ろうというのである。その時、何が現れてくるのだろうか。それは弔辞・遺言運動と言ってもいいのかも知れない。

今、司馬遼太郎さんの小説がテレビ放映されているが、司馬さんの活動もまた、その本質は、弔辞・遺言運動ではなかったろうか。

弔辞は、過去の死に対する言葉である。遺言は、未来の生に対する言葉である。この死も、この生も、ともに対象化されている。死について語り、生について語る、それは一つのこととしてつながっている。生だけを語ることも、死だけを語ることも間違いである。

多くの言葉が氾濫していても、死と生とのつながりを意識していないところで語られる言葉は、パスカルに思いをはせれば、所詮、気晴らしの類ではないかと思う。

弔辞・遺言運動、それはまた、「新しき中世」を志向する活動の本質でもある。

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2009年12月22日 (火)

老婆の心

姥捨ては 老病の山 助けられ
 登る老婆の 心サムライ

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2009年12月 6日 (日)

がん

がんという 怖く優しい 病あり
 別れの日まで 数える余裕

別れ告ぐ 怖く優しい がん車来る
 未練を落とす 日々に感謝し

がんという病気は怖いイメージが強いが、優しい病気かも知れない。この世との別れの準備をする時間的余裕があるのだから。

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