2012年11月20日 (火)

魂のSOS

魂が
おぼれそうになったなら
   
心の中で叫ぼうよ
「私を救ってください」と
   
人の心を知る方は
きっと、助けてくれるだろう
   
生きることは苦しいよ
それが宿命なんだから
   
生の中に死があって
やがて生を飲み込むよ
   
しかし、死ぬ前に死んでしまったら
死は、いつまでもやってこないだろう

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2010年8月 5日 (木)

実存主義

私が大学生だった昭和40年代前半は、今よりも実存主義への関心は大きかった。キェルケゴールが、その真理性に気づいたとされるが、ニーチェも、あるいはもっと遡って、アウグスチヌスにも、その思想が語られている。キェルケゴールの影響を受けて、多くの思想家、哲学者が輩出した。その中には、サルトルのように無神論的実存主義とされる思想もあり、一般には、こちらの方がよく読まれたのではないだろうか。そんなこともあってか、マルセルはカトリック実存思想家と言われるけれど、カトリック教会の中には実存主義思想への批判もあり、自分が、そう呼ばれることにためらいを感じているという情報もあった。日本で哲学を教えていたカトリックの神父の中には、実存主義思想への反発を書いた人もいた。

私は、逆に実存主義にひかれていた。今もそうである。そして、それでいいのだと思っている。いや、そうでなければならないと思っている。それは、無神論に引かれるためではない。キリスト教実存主義思想は再臨信仰に結び付けられなければならないと思っているからである。

内村鑑三もキェルケゴールの名前に言及したことがあった。だから、彼も実存主義に触れたのである。しかし、これが、かつて旗振り役を演じた再臨信仰と関係があることについては語っていない。むしろ、その課題は、我々に委ねられているのではないかと思う。

実存主義はキリスト教的なものと、無神論的なものに区別されている。どれを採用するかは、その人自身が決めることである。それは、その中で、自分が生き、また死ぬためである。

我々は、やがて、いつかは死ぬ。生きるということは、その死ぬ時を一時も忘れずに、その準備としての生でなければならぬ。その思想と共に生き、その思想と共に死ぬ、そんな思想は、客観的真理だといって、教科書的に教えられるものではない。それは自分で選び取る以外にない。再臨信仰と結びついた実存思想は、私にとって、そんな思想である。しかし、残念ながら、現代の教会は、このことを知らない。知っていれば、教会の影響力は、もっと大きく、深いものになっているであろう。

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2009年12月27日 (日)

聖霊の本質

聖霊は、どこから来るのだろうか。聖霊は未来から来る。その原因は過去にあろうとも、聖霊は未来から来る。未来を生き、永遠へと繋がる命が聖霊だからである。

しかし、聖霊は未来の生ではない、未来からの生である。それが聖霊の本質である。未来の生は、やがて過去の生となる。しかし、未来からの生は過去の生とはならない。だから、永遠の生でもある。

未来の生に生きる者は、その生が実現された時、また実現されなかった時、挫折感を感じるかも知れない。しかし、未来からの生には、そんな不安はない。そして、そんな、未来からの生に接しつつ生きる生き方を実存的な生き方というのだろう。

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2009年11月20日 (金)

実存的生き方

新生前であれば、十字架が実存を可能にさせてくれる。しかし、新生後の聖化の段階では、十字架に、その力はない。その時に、実存を可能にしてくれるのは再臨である。再臨信仰がキリスト者の実存的生き方を可能にさせてくれるものである。

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2009年10月25日 (日)

仏教と実存思想

仏教と実存思想という観点では、親鸞の絶対他力信仰をまず思い浮かべる。人間の限界の意識が、実存思想の前提だからである。

それに対照的なのが禅宗であろうか。しかし、禅宗が自力救済の宗教と言われるのは、どうかと思われる。道元の「身心脱落、脱落身心」の言葉の意味を考えてのことである。この言葉の意味が、キリスト教における回心、あるいは新生であれば、それは実存思想の核心に根ざしているとはいえないだろうか。そうではなくて、自力救済の中の一つの段階として位置づけられる時、この言葉の重みは半減していくであろう。しかし、西田幾多郎が、座禅の中から意味深い弁証法的思想を見つけていったことを思えば、やはり、禅宗は単なる自力救済の宗教ではないと思いたくなる。

実存思想の典型的生き方は、意外と思われるが、美空ひばりの言葉として伝わっている「今日の我に明日は勝つ」という生き方であろうかと思う。常に自分を超えて行くという生き方である。キリスト教の中では、新生は十字架に、また聖化は再臨という、自分の外の客観的な事柄に結びつく必要があると思われる。しかし、教会が再臨への関心を失っているところでは、実存的生き方、また思想を放棄しているのではないかと危惧されるところである。十字架は新生前の人にとっては実存を可能にする契機であり、聖化の段階の人たち、すなわちキリスト者たちにとっては、十字架よりも、むしろ再臨の意識化が実存を生活化するために必要なのだと思う。

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2009年9月22日 (火)

実存の風

人に実存を意識させる風は、どこから吹いてくるのだろうか。それは最後の審判から吹いてくるのである。その前に立って、人には二種類の問いが投げかけられている。一つは、自分は救われるのか、それとも滅びるのだろうかとの問い。もい一つは、与えられたタラントに対する果実として、十分に勘定が合っているかどうかという問いである。これらに対応して、二種類の不安が人を襲う。したがって実存の風も、二種類あるのだと思う。

前者には義認が必要であり、後者には聖化の完成が必要である。ルターは前者の重要性を訴えたが、それは無視できないことである。しかし、カトリックには後者への意識が強く、それを受けてか、ウェスレーは後者への配慮を重視したと言えよう。これも無視は出来ないことである。そして、最近は使われなくなったが、煉獄の思想は、特に後者に関係していると思う。それは聖化の道を全うせよという促しであるようにも思える。

最後の審判は未来の出来事であるといっても、われわれは、その予感を知っている。それが実存の風ではないだろうか。もし、人が実存の風を感じたら、その意味が何であるかを、よく考えるべきである。

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2009年7月14日 (火)

無事

今日もまた 何事もなく 過ぎにけり
 時の怖さを 誰も知らずに

何もない それが平和か それでよし
 よしと言いつつ なお問いかける

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2009年7月12日 (日)

超人

我は勝つ ひばりの言葉 超人の
 理想と一致 新たな視点

美空ひばりの言葉「今日の我に明日は勝つ」は、ニーチェの超人を連想させます。実存思想の精髄の言葉のようです。ニーチェは、キリスト教に反対と思われていますが、超人の理解を聖化への道の中で捉えれば、もっと別の意味を持つかと思います。

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悲しみ

悲しみが 実存を呼び それがまた
 悲しみ招く 生死の境

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2009年4月14日 (火)

実存的な生き方

美空ひばりさんに「今日の我に明日は勝つ」という言葉があります。実存的生き方の標語のような言葉です。

否定神学も、実存的な生き方を示唆しているように思えます。

また、無、絶対無などの言葉を残した西田哲学のことを思います。

恐らく、原罪の観念がないと言われている日本人にも、ニヒリズムが何かは、あるいは、ある人たちには強烈に意識される可能性があると思います。それが、あるいは原罪のもたらす結果なのかも知れません。

ニヒリズムは無の思想を生み出すでしょう。仏陀も同じような意識から探求の旅を始めたのだと思います。

絶対無は、その無の否定、絶えざる否定を意味するのだとしたら、それは美空ひばりの言葉と通じるものがあると思います。

無を感じ、その無を突破する所に絶対無があるとしたら、それは神につながるものと思います。こういう姿勢、生き方が、日本人には、あるいは日本のキリスト者には相応しいのではないかと思います。色即是空は皆、知っています。しかし、それは空即是色に転換しなければなりません。

その超越の姿勢が、どこかで固定する時、そこに偶像があるのかも知れません。

我々は、その意味では、偶像から自由ではありません。しかし、それを知っているのと、知らないのとでは、大いに違うと思います。

絶えざる否定、そして超越、そんな生き方をしたいと思います。これは、そう思う個人が、まず実践するところから始まるのでしょう。

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