2012年2月28日 (火)

登山の勧め

人生を旅にたとえる人は多いかも知れない。そこでは多様な経験が表されている。しかし、私は登山にたとえたい。そこには目標の確定と広がりゆく眺望がある。

人生の旅は六道を行くようなものかも知れない。しかし、そこには何かが欠けている。それを満たすために解脱がある。それはまた新しい旅の始まりかも知れない。しかし、以前の旅とは違う。それはゴールを知っていて、それに向かっているということではないだろうか。

少子高齢化の時代で、あの姨捨山物語が再度読まれなければならない。この物語を本当に意義あらしめるためには、『天路歴程』を、それに重ねなくてはならない。

聖化とは登山のようなものではないだろうか。そんなイメージが必要ではないだろうか。

声すなり 麓で遊ぶ 子らに向け 登山の勧め 聞けども聞かず

麓で子らが遊んでいる。登山への招きがなされる。しかし、子らは遊びに夢中で、招きの声に耳をかさない。しかし、応える子もいる。

なぜ、登山なのか。それは麓は洪水の危険があるからである。洪水からの退避、それが登山であり、救いである。

招きにすべての子らが応えるとは限らない。それは子らの選択によるのであって、その結果は、子ら自身が負うことになる。しかし、招きは、聖化の、登山している人たちがすべきであり、それは自然にそうなるのだと思う。

登山の中で、風景が変わり、展望が開けていく。そんな展望の紹介もまた登山への招き、動機になるかも知れない。

なぜ、登山なのか。それは再臨が聖化の目標だからである。山の頂上で再臨を迎える、それが登山の動機である。

聖化には目標が必要である。その時、それは再臨以外にはない。再臨は有形的再臨である。しかし、その途中に、空中再臨があってもいい。聖化を前進させるためには、その目標を明確に捉える必要があると思う。

現在は過去によってもたらされ、将来によって支えられている。愛は信仰によってもたらされ、希望によって支えられている。その愛は現在でありつつ、永遠である。

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2011年6月 8日 (水)

二つの愛

「およそ人間が何を愛するにもせよ、人間の愛は結局において、普遍的存在か自己自身かのいずれかに向かっているのである。愛するという機能ないしは行為の固有の対象は、普遍的存在あるいは自己自身なのである」
「人間にとって、普遍的存在と自己自身とを、同時に愛することも、両者のいずれをも愛しないことも、共に不可能である」
(「パスカルとニーチェ」吉沢伝三郎著)

アウグスチヌスの神の国と地の国に対応して、二つの愛がある、ということであろう。二つしかないということも肝心な点かもしれない。あれか、これかの二者択一である。ということは、人生とは、まさに決断の連続ということになろうか。

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出世

「もし人間がただサタンにのみ仕えることを望むなら、サタンは、人間の要求するものを必ず与えるであろう。富、名声、地位、権力、これらはすべて、悪魔の贈物の中に入っている。彼はこれらのものを所有しており、彼の悪意がひそんでいる目的を達成するために、それらを実際に人間に与えるのである」(「キリストの危機」キャンベル・モルガン著)

出世は結果であり、目的ではない。目的としたら、それはサタンに仕えることになるかも知れない。ウェーバーの名著を読むと、資本主義の初期に、この混同があったのではないだろうかとも思う。結果を目的にしてはいけない。それは偶像になる。

だから資本主義は、その中に正しいものを含んでいたかも知れないが、それもまた、サタンに仕えるものになったかも知れない。

それにしても、人間は結果を求めるのではないだろうか。結果を求めない生き方とは、どういうものであろうか。ただ神の国の到来が現実的なものと知る時に、それが可能になるのではないだろうか。

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2011年5月22日 (日)

生活の反省

生活というものは修行の場なのではないだろうか。生活の外に修行があるのではなく、生活のただ中に修行の場があるのではないだろうか。

そのような工夫が必要ではないだろうか。生活が無意味に感じられる時、それは、生活の中に修行を作るという発想の欠如を意味しているのではないだろうか。

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2011年5月 1日 (日)

悪妻

悪妻を持った著名人いうと、ソクラテス、トルストイなどが挙げられる。あるいは、ウェスレーや徳川家康などもそうかもしれない。

ウェスレーの妻は、ウェスレーの髪を引っ張って、ひきづり回したというが、伝記にはほとんど出てこない。しかし、結婚したことは事実らしい。余り幸福な結婚生活ではなかったのだろう。ウェスレーには子はなかった。どんな気持ちで、妻と向き合っていたのだろうか。

家康の正室は築山殿という。彼の場合は悲劇的であった。家康が、今川義元の敵であった織田に寝返ったという「裏切り」が、今川義元の妹の娘にあたる築山殿の反発につながり、悲劇を準備したのだろうか。しかし、戦国の世にあっては、家康の決断はしかたなかったのだろう。

創世記では、神は男を助けるために女をつくったと書かれている。しかし、その女、つまり妻が夫を助けるのではなく、重荷になった場合、そこには幸福な家庭はないだろう。なぜこうなったのか、と問う時、なんらかの回答が見つかるかもしれない。しかし、それでも、悪妻を持ったとしても、神を信じる夫は、ウェスレーとともに、こう言うことができるであろう。「最もよいことは、神が共にいることである」と。

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2011年4月10日 (日)

墓参

日曜日に教会に行く。どこか墓参に似ている。普通、墓は一ヶ所だが、こちらは、最後の晩餐の行事として、時間・空間を超えている。
信仰の発端は過去と現在を結ぶことであり、信仰の完成とは、過去・現在・未来が、その発端の中で繋がることである。内村鑑三流に言えば、前者は新生の実験、後者は再臨信仰であろうか。スタートを切った人は、ゴールを見なければならない。ゴールを見ていないキリスト者が、あるいは多いかも知れない。

墓参り 過去と今とを 繋ぐ道 未来があれば なおなおよろし

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2011年3月29日 (火)

人生の意味を問う

人生の意味を問う時、その回答はどこにあるのだろうか。

現在は、問いの中にあるのだから、現在にはない。

では、過去にあるのだろうか。確かに、過去には因果関係において、現在の原因がある。しかし、その原因を知って、それで問いはなくなるのだろうか。その原因が問いと質を異にしている場合もあろう。そんな時には、問いはなくならない。

では、回答はどこにあるのだろうか。未来にある。キリスト者における再臨とは、そんな問いに回答の与えられる時である。未来からの光で、人生の問いへの回答を集めていく、そんな姿勢が再臨待望の生き方なのかも知れない。

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2011年2月28日 (月)

自己実現の方法

自己実現とは、自分の可能性であり、唯一の可能性である。だから、人間は誰も自己実現の道を歩むほかに、生きる道はないといってもいい。

では、その方法は? 自分の意識を照らし出して、何か気になること、ひっかかることに固着していく以外にないかも知れない。そこで、物語を考える(それは架空を意味しない)こと、それを発信していくこと、表現していくこと、その過程で自己実現が前進していくのかも知れない。

それは、他の人々の自己実現を助けることになるだろう。だから、発信、表現は、自分のためであると同時に他者のためでもある。

こういう方法で、福音が伝えられていくこと、それが現代、すべての人たちに可能になっている。その先達は? と問えば、やはり内村鑑三を挙げざるを得ない。

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2010年9月 1日 (水)

信仰と行為

「ここがロドスだ。ここで跳べ」。この言葉はイソップ寓話にある「ほら吹き男」の話に出てきます。ヘーゲルも、この言葉を自分の著書の中で引用しています。意味は「論より証拠」というものでしょう。
聖書の中にも、同じような趣旨の言葉があります。行いのない信仰は無意味である、とあります。
これは、信仰の重要性を否定した言葉ではないと思います。信仰の成長を促す言葉ではないでしょうか。
信仰は行為とつながっています。成功の秘訣を知った人は、その秘訣を試してみたくならないでしょうか。そんな動機が、行為につながっているのでは、と思います。
信仰は成功の秘訣でもあります。信仰に、そういう認識が伴うかどうか、それが問われているのかも知れません。
マーフィーの法則という本があります。マーフィーという人物は牧師かも知れません。内容は、聖書の読み方の一つかも知れません。しかし、世俗的な成功よりも、「神と共にある」という状態を、私は尊いと思います。と同時に、「神と共にある」人が、世俗的な面でも成功を望んでもいいのではないかとも思います。そんな動機が形成できるかどうか、それも問題かも知れませんが。

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2010年8月31日 (火)

自分探しのヒント

よく生きるためには、自分探しが必要だ。自分とは何か。そのために過去を学ぶ。その時、自分に近い過去から始めた方がよい。このへんに親子の責任と義務があるかも知れない。

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