2014年4月 4日 (金)

終活、それは今でしょ

「終活ブームって、どういう意味?」
「一つは『楢山節考』が再度、注目され始めたことかな。しかし、それではちょっと暗いと思う人には『天路歴程』という選択もあるよ。人は誰もがやがては死ぬ。それは第一義的には肉体の死のことだけれど、それと共に生きてきた時の希望もなくなり、あるいは絶望状態になる人もいるかも知れない。そのことを今、考えようということなんだろうね」

「終活をどう考えたらいい?」
「モンテーニュは言うんだ、『哲学すること、それはどのように死ぬかを学ぶことだ』。キケロは『哲学することは死の用意をすること』と言っている。だから、終活はある意味では哲学の勧めでもある」

「終活の問題点って何?」
「死を他人ごとのように見て取り組んで いるように思えることかな。終活に取り組む前に、死とは何か考えるべきと思うけど、それがない。まぁ、難題だからね」

「教会には老人の集いなんて、ないの?」
「『ヤング・オールドの集い』というのがあるんだ。最初、若い人と老人の交歓の集いかと思ったけど、ヤングは形容詞と知って、ちょっとびっくり。『いつまでも、お若く』といった気持ちが込められているのかも知れないけど、終活の発想ではないと思うよ」

「ところで、就活の前に終活を始める子供がいるみたいだが、親は心配じょないだろうか?」
「まあ、仏教を始めた人も、考えてみれば、就活の前に終活をしたんじゃないかな。日本には仏教徒は多いから、あまり心配しないかも知れないよ。終活は悟りへの道だよ。一方、キリスト教では、肉体の死の前に、もう一つの死があるんだ。それに関連づけられているのが洗礼。洗礼準備も終活の一つかも知れないよ。それを心配する親はいないでしょう」」

「終活で興味あるもの、何かある?」
「いつかテレビでやっていた入棺体験だね。気持ちが落ち着くと言っていたよ。煩悩離脱の方法だとしたら、座禅ともつながるかもね。一度、体験してみたいものだよ。それに、キリスト教図書館の構想はどうだろうかね。個人所有のキリスト教関係図書を誰もが読めるシステムを考えてもいいんじゃないかな。個人が閲覧可能の図書リストを既存の図書館に提供して、読みたい人に図書館を通して渡せばいいんだよ。個人が亡くなれば、図書は図書館に寄贈すればいい。これも終活の一つかもね」

「終活では遺産が問題になるけど、どうしようか?」
「最大の遺産は、その人がどう生きたかということじゃないかな。金銭なんてものは、それに比べたら微々たるものだよ。ウェスレーは亡くなった時にはあまり遺産はなかったらしいけど、その生き方を通して莫大な遺産を後世に残したと思うよ。遺言を書くのもいいけど、その前に、その人の生活の仕方の方が大事だろうね。それは、狭い特定の人への遺言ではなく、不特定多数の人々への贈り物にもなるんだ。それに触れた後世の人たちの生き方によい影響を与えられれば、それも遺言と思うよ」

「終活って、人によっては生きる意欲を失わせるんじゃないだろうか?」
「いや、違うよ。よく生きることを考えるきっかけを提供しようとするものだよ。生を考えることは死を考えること、逆もそう。単独に一つを、深く考えることはできないよ。終活にかかわる人は死というものを考えざるを得ないけど、その時、死は勝利なんだ、凱旋なんだという考え方があれば、どれほど終活が楽しくなるか知れない。生きることを考えようということは、死ぬことを考えようということとは逆のことのように思えるかも知れないけど、実は同じことなのだという視点の発見が、その人を賢者にするのではないだろうか。その意味で、終活ブームは賢者への誘いであると思うよ」

「終活を終えたら、安心して死ねますか?」
「であればいいけど、残念ながら終活は死が来るまで終わらないと思うよ」

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2013年9月17日 (火)

遠藤周作と宗教多元主義

遠藤周作は宗教的多元主義者であったか、そんな問いは当然あると思います。その答えとして、たとえば、かつて、カトリック新聞の2面「展望」欄で、酒井新二氏が触れていました。一部を引用します。

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「宗教多元論」に対してバチカンが認める限度はキリスト教の「包括主義」といわれるものである。それは諸宗教の伝統と教義の中に「救い」の教えの真実性を認めるが結局それを包括し、究極的にまとめるのはキリスト教であるという考え方である。プロテスタントの神学者ジョン・ヒックは「カトリックのこのような考え方は過去の宗教的帝国主義の遺物でしかない」と批判した。遠藤は『深い河』の中でこのヒックの主張に共感を示している。しかし粕谷師は遠藤が『深い河』の最後で「この世界で信じられるものはその人しかない」とシスターに語らせることによって相対主義的宗教多元主義を超え「イエスによる救いの唯一性」に突破したと理解する。
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粕谷師とは粕谷甲一神父(2011年2月9日、帰天)のことです。遠藤周作を宗教多元主義者と断定すると、彼はカトリック信仰から離れたと断定することで、私には、そこまでは言えないと思います。粕谷師の指摘を尊重したいと思います。

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2013年1月 4日 (金)

会津とキリスト教

1月2日夜、白虎隊をテーマにしたテレビ・ドラマがあった。松平容保の近くで仕えている小姓の井深梶之助という少年がいたが、のちに明治学院の第二代総理になった、あの人である。明治学院も、そして山本八重を通して同志社も会津と深い繋がりがある。今年はそんな興味を持ってテレビを見ることになるだろう。

さて、白虎隊のテレビ・ドラマでは、井深という人物がもう一人いた。白虎隊士で飯盛山で自刃した井深茂太郎であった。名前が画面に出た。こちらがソニーの井深大・名誉会長の先祖筋にあたる人物らしい。梶之助と茂太郎が、どういう関係か分からないけれど。

ソニー名誉会長だった井深大さんは日本基督教団富士見町教会の会員で、葬儀の司式者は、当時の所属教会のK牧師だった。しかし、会場は参列者への配慮だったのか、品川の大きな教会だった。

井深茂太郎と井深大との関係は、ウィキペディアでは、少し訂正が入ったらしい。最初は、「先祖の一人」であったが、のちに「親戚」に改められていた。「先祖の一人」だと、直系かとの思いも働くが、そうなれば、少年が結婚していて子供もいたということになり、なぜ、という思いも働く。しかし、「先祖の一人」ではなく、「親戚」なら、その説明は不要になる。

梶之助と茂太郎も、井深姓なのだから、どこかでつながっているかも知れない。

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2012年11月30日 (金)

なつめろ歓迎

■昭和48年10月の某雑誌に書いたもの。「なつめろ歓迎」という題でした。今なら、携帯電話、スマホが取り上げられるでしょう。しかし、そのころは、今のような時代の到来を予想できた人はいなかったでしょう■

「世は挙げて情報化の時代--。その中でも一番の花形はなんと言ってもテレビだろうな。僕はテレビが大好きだ。世にはテレビなんて低俗なものは遠ざけ、清く、正しい生活を送ろうとしている御仁もおられるとか…。しかし、僕はマックス・ウェーバー大先生ご同様、近代化の過程を受け入れる人間だ」
「近代化の過程を受け入れるなんて、誰もがそうしていることで、当たり前のことじゃあないか。なにも、マックス・ウェーバーなんて大学者を呼び出すことなんかない。考え方が大げさだよ。『八っつぁん、熊さんご同様に』と言ったって、差し支えないと違うか」
「日頃、僕の平民主義(ちょっと言葉が古い感じだなあ。しかし、国家エゴイズムが個々人に分散したに過ぎない民主主義は、ベルジャーエフに言わせれば、偉大な人格に対する蔑視の体質を持っているんだ。いやだねえ。僕はこんな民主主義と区別するため、あえて平民主義と言うんだが…)を熟知している君のことだから、そんな言葉が出てくるのも納得できる。しかし、僕の近代化受容は否定の猛火をくぐり抜けた総合的なものなんだ。ウェーバー先生にご登場願ったのは、同じ受容でも、だいぶ痴呆化が進み、常に反動に流れる大衆と異なる、自覚した個人としてそうするんだということを強調したいためなんだ」
「君は庶民の味方だったんじゃあないかい。そんな言葉は庶民に対する甚だしい侮辱だよ」
「ええい、分かっちゃいないんだなあ。君は何年、僕の近くにいるんだい。僕は庶民を心の底から信じる、しかし、同時に僕は庶民を心の底から信じない。この絶対矛盾的自己同一の神の立場こそ、僕の実存の原点だと、何度も君に言ったじゃないか」
 さて、本題に入る。
「テレビをよく見る僕は、そこに一つの新しい傾向が一向に衰えず、逆に一層盛んになりつつあることを知った。言わずと知れた『懐かしのメロディー』(なつめろ)だ。こんなことは誰でも知っている。しかし、多くの人はこの現象を文明批評的観点から取り上げ、論じようとはしない。
 なつめろの司会者として、一番早かったのはコロンビア・トップ、ライトじゃなかったかな。僕は、そのころ、これは実に面白い動きだと思って注目し、歓迎したよ。誰が提唱者か知らないが、僕はこの偉大な発想に敬服した。いや、この発想の光栄は特定個人に帰せられるものではなく、時代の要請という非個人的なもののウエイトの方が重いかもね。
 僕は近代化の過程を受け入れると、前に言ったよね。じゃあ、この近代化とは何だ。僕の言っているのは、科学技術の成果の適用のことさ。見方によっては、資本主義の搾取、抑圧を強化していく、非人間化への手段の受容のことだ。じゃあ、この近代となつめろとは、どう結びつくんだろう。なつめろブームの心はアニマル的人間近代化概念にとっては、保守反動だろうな。けど、ウェーバー大先生の近代化概念には両立すると思うよ。宗教界の一部の危惧にもかかわらず、具眼の士にとっては、これは反動でも後退でもないんだ。もっとも、方法的に緻密かつ合理的なウェーバー大先生は絶対矛盾的自己同一居士にはなれなかったが、時たま神秘的霊感が閃くので、親近感を覚え、お呼びしたまでなんだがね。とにかく、日本は一日も早く獣性脱出を実現したいんだ。なんと前近代的なことを、しかも近代を象徴する花形メディアを用いてやろうとは、あきれるわい。
 なつめろブーム--。この根っこは、あの全共闘の学園紛争と同じくらい深いもんだよ。それとの因果関係が洞察できるからさ。当時、『世代の断絶』とか『歴史感覚の欠如』とか盛んに言われたもんだ。あのへんの憂国の意識がなつめろブームの中に具体化していると思うな。一方、あの頃は盛んに危機感が叫ばれ、全共闘の狂気じみた言動からは、『俺たちこそ危機感におけるエリートなり』なんて、預言者を思わせる変な論理と居直りがあったっけ。このへんから『原点』とか『根源』とかいう言葉が大流行したが、この系譜に軍歌リバイバルがあるのと違うかな。戦争は人間の限界状況だからね。
 『俺は戦争は嫌いだ。軍国主義もいやだ。しかし、戦争の時、人間がどんなに美しくみえたか、この一面を見ようとしない一部の人の軍国主義批判もいやだ』--藤原弘達先生はこう喝破したが、至言だと思ったなあ。
 なつめろブームは、インテリが古典を読んで自分の精神の鍛錬をするように、一般庶民に対する、それと同じような、すぐれた情操教育の機会だと思うよ。今の日本人には、人間の内面なんてものはどうでもいい、悪くすると、人間の外側が整えば、内面も自然に出来上がってくると考えている人もいるくらいだから、国民的情操教育機関が必要になってくるわけだ。そこで、なつめろ歓迎となるんだ」

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人生相談

■昭和48年12月号の、ある雑誌に、こんな文章を載せていました。「人生相談」という題。やはり、大学紛争の余波が残っていて、そのモチーフが現れています■

 僕は以前、ある雑誌の「人生相談」の欄を担当していて、いろんな人の悩みを聞いていたせいか、時々、実に切実な手紙を受け取ることがある。その一つが、あの大学紛争たけなわの頃、卒業式を妨害した一高校生の手紙だった。
 手紙を紹介することに対し、誌面が僅かなので要約にすべきだとか思ったが、この際、全文を紹介する。人間が日常生活においてはほとんど知ることのない、しかし、いつの間にか人間から離れ去ってしまうことも、また永久に忘れられてしまうこともない「最も恐るべきもの」を告知したキェルケゴールも、「当然のことじゃあないか」と、僕の判断を支持するだろう。
 高校生は「死に至る病」の患者なのだ。彼の無鉄砲な行為の背後に隠れ、脅えているちっちゃな心を思う時、僕はその心をぎゅっと抱きしめ、僕の体温で温めてあげたい。無情な「法の番人」は僕の、この呼応を叱るかも知れないが、立派な日本人である「水戸黄門」も「銭形平次」も、ほほえみながら、うなづいてくれるだろう。
 手紙の全文は次のようものだった。
 「僕は卒業式を妨害した高校生の一人です。僕の仲間は十人ぐらいいましたが、みな僕より強そうで、自分のすることに確信を持っているようでした。『こうなんだ!』--そう決めつけるのが彼らの癖で、あとはもうテコでも動かないのです。
 しかし、僕は彼らのように強くなれそうにありません。というのは、僕は人の怒った目を見たり、怒鳴りちらす声を聞いたりするのが怖いからです。そして、僕を馬鹿にする言葉を聞くと、怒るかわりに、冷水を浴びせられたように、金縛りの術にかけられたように、すくみあがってしまうのです。
 では、こんなに弱い僕がどうしてあんな突飛な行動をあえてしたのでしょうか。魂の危機を知ってもらいたかった。ただ、それだけなんです。
 僕は自分がいつも何かに脅えているのを知っているので、この脅えている自分を指して“魂”というのですが、彼らは僕がこの言葉を口に出すのを聞くと、僕を馬鹿にしたり、茶化したりしました。
 僕らは世間では健康優良児、良家のお坊ちゃまで通っているけれど、実は病人なんです。けれども、身体は特にどこも故障がないので、『僕は病気なんだ』と言っても、誰も相手にしてくれず、それに僕自身、自分の病気を説明するのがなかなか難しいのです。
 親は、『お前の仕事は勉強なんだから、勉強していれば、それでいいんだよ』と、僕によく言うのですが、僕には勉強する心の余裕なんかなかったのです。
 時々、町中を救急車がけたたましいサイレンを鳴らして突っ走って行くのを見ましたが、僕は、そのサイレンの音を聞いて、ほっとしたのです。この平和で、何もかも満ち足りているような社会の中で、僕は毎日、何かで首を締め付けられているように感じるのです。救急車のサイレンの音は、出口のない、重い僕の気持ちを吸収してくれ、僕は患者には失礼ですが、ようやく、いくらか肩のこりをほぐすことができるのです。
 どうか、こんな僕を助けてください」
 ある日、僕の親友で、いつも口ぐせのように、「自分はゆくゆくは、長谷川如是閑のように文明批評の分野で仕事をしたい」と言っている自称“雑学博士”が来たので、この手紙を見せた。
 “雑学博士”は、手紙を読んだあと、開口一番、次のように言い切った。
 「この少年は、今の日本の多くの宗教家よりも、ずっとずっと宗教的な要素がある」
 「何を根拠に、そんなことを言うんだい。場合によっては、君の言葉は日々の宗教的行事を忠実に行っている宗教家に対して、非常なる侮辱だよ」
 「いいじゃないか。宗教とは、キェルケゴールが指摘したように、神の前における実存的体験が原点なんだから。それがなければ、いくら学んでも、実践しても意味がないんだ」
 

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2012年11月29日 (木)

フーテンの寅さん

 キリスト教と「フーテンの寅さん」を関連づけた本を書店で見ました。まだ読んでいませんが、興味はあります。昭和48年11月に出た某雑誌に、「フーテンの寅さん」というタイトルで記事を書いたことがありました。その時の記事は以下のようなものです。「フーテンの寅さん」は、今も、日本人にいろいろなことを問いかけていると思います。

 今の日本に希望はあるか--。とてつもない大きな課題だ。僕自身、日本の動きを隅から隅まで知り尽くしているわけじゃあないから、この占い、当たるも八卦、当らぬも八卦というところかも知れない。しかし、この僕でも、データを集めてコンピューターにかけさえすれば、何でも分かるといった「おめでた教」の信者より賢いと思っている。もっとも彼らは自分は非宗教者であるという誇りを持っているだろうがね。
 占いというのは、どこかの法相が国会答弁で漏らした、あの第六感がものを言うんだ。雑多な印象の超越的かつ統一的感覚が決め手なんだが、機械には、コンピューターと言えども、こんな感覚ありゃしないよ。「そんなことどうだっていいじゃないか。お前はなんて理屈っぽいんだい。お前には女性的なものが足りなさすぎるよ」。
 どうも僕はヨーロッパ古代のキリスト教史を飾る、偉大なるアフリカの星、聖アウグスチヌスに似た悪い癖があって弱っている、なんて言ったら大げさだろうか。ちょっと不透明な問題にぶつかると前後を忘れて夢中になってしまうんだ。彼の残した厖大な著作は、夢中にならないでは不可能であっただろう。
 「今の日本にだって、そんなところ見えるぞ!」と、慧眼の士は、そうのたもうかも知れない。しかし、だからといって、現代日本の表面的な熱心さ、流行の言葉で言えば「偏向」だが、それを理性の巨人、聖アウグスチヌスと結びつけるわけにはいかない。ハイデッガーは思惟を「計算する思惟」と「省察する追思惟」に分けているが、僕とアウグスチヌスは、お互い程度の差はあっても後者、現代の日本人の大多数は前者に偏向していると言いたい。さて、それでは、そろそろ軌道修正しよう。
 僕は今の日本にほのかな希望を感ぜずにはおれない。これがこの課題に対する僕の結論だ。この結論、実は純客観的なものというより、僕だからこうなる、といったところもある。「アブラハムは神を信じた。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのため彼は多くの国民の父となった」--聖書はこう言っているのだが、この、望み得ないのに望み、信じたという点、そして、実際そうなったという点は注目に値する。前者においては、コンピューターなんか出る幕ではないということ、後者においては、僕の占いの真実性を指摘しているのだ。かといって、かくも不信な時代に、僕は「権威」なんてキザな言葉を持ち出したくはない。キェルケゴールのように道化を演じたい。
 さて、日本の希望はいずこに……。「私は二つのJを愛する」との、今頃の若いキリスト者にとっては不可解かつ含蓄に富む言葉を残した内村鑑三先生も、あの世でさぞご満悦のことだろう。なぜなら、僕の感じる日本の新しい胎動とは、偉大な、そして真の日本人の出現を準備しているように見えるからだ。
 あの学園紛争で体制の壁にぶつかり火花を散らした創造のエネルギーは今や、過激派の断末魔的な、ヒステリックな覚醒気(拡声器)の声から解放されて、深く、静かに、日本人の心の中を潜行しているからだ。出版界、映画界、歌謡界などにみられる胎動の堅実さは今度こそ偽者でなく本物の、日本の預言者の登場を予感させる。しかし、今頃の若いキリスト者は誰が何と言っても物事の半面しか見ないことを信条としているから、僕らが「美しく愛すべき日本よ」と呼びかけ、心の中では、あの、「神を孕めるロシア人」のように大地に接吻しようとも、この感情を永遠に理解することはできないだろう。
 僕は日本の希望の一つに「フーテンの寅さん」を挙げたい。この映画、有楽町あたりのちょっと上品な映画館街には縁がなく、新宿とか浅草とか、「ねえちゃん、あんちゃん」のたむろしている映画街に、ヤクザ映画、ポルノ映画と肩を並べて上映された。ただこのことだけで、世の良俗の守護神におわします「責任倫理的」人間は現代日本の傑作映画の一つの傍らを通り過ぎてしまったことだろう。あたかも、強盗に襲われた旅人に目をそむけた祭司、レビ人のように。
 「寅さん」の人気は今や怪物並み、かつての「君の名は」に匹敵するらしい。その理由の一つは、寅さんの、小説『坊ちゃん』を思わせる気風のよさと、映画「ジバゴ」にも及びそうな情の深さにあるだろう。しかも、同時に滑稽だときているから、ますますいい。この感動、いつまでも失いたくない。

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2012年8月26日 (日)

至福直観

カトリック信者の中には、生きる目標に「聖人になる」とか「至福直観」とか言う人がいる。聖書の中には、至福直観を指すような聖句がある。「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう」(コリント第一、13・12)である。

ところで、今年の夏、この言葉を連想させるような出来事を見た。オリンピックのメダリストたちの凱旋パレードに多くの人たちが選手たちを一目見ようと出かけたことである。ある評論家は、この現象に「アスリート大明神」という言葉を書いた。メダリストたちを見ることによって、何か力が体内に入ってくることを感じた人たちもいたからである。そんなことが私には至福直観を連想させるのである。

アスリート大明神とは何か。多くの人からパワーをもらい、オリンピックでメダルを取って、貰ったパワーをお返しする人たち。大明神たちを一目でも見た人たちはパワーを受け、元気になる。「日本を元気にするため戦いました」と選手たちは言うのだから、やはりパワーのやりとりをしていると思っているのだろう。

至福直観もまた、見ることによって力が与えられることを意味しているのだろう。大明神とは違い、パワーのやりとりをしているのではなく、ただそこでは与えられるだけであろう。

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2012年8月10日 (金)

老前整理

ブックオフで『老前整理』という本を買った。意味が分からなかったが、老いる前に身の回りを整理しようとの提唱で、趣旨は賛成である。

老前整理の外にも、断捨離とか、新しい言葉で、現代人の生き方への提言をしている人もいる。その気があれば、今からでも取り組める。身の回りを整理していけば、宝の持ち腐れのなんと多いことかが分かるだろう。

以前、新聞の新刊書広告の中に「老前生活」の文字があった。「老前」は『老前整理』に由来するのだろう。この「老前整理」には「死を覚えよ」(メメント・モリ)との中世精神に通じるところがある。だから、「老前整理」は現代の宣教活動の中核の言葉になる可能性を秘めていると思える。特に、高齢社会では重要な視点ではないだろうか。この「老前」分野の宣教課題には、教会はどれくらい気づいているのだろうか。教会の課題というより日本社会全体の課題でもあろう。

老年になっても、病気になっても、臨終の時にも、信じる者には平安と感謝があるだろう。そこに「老前整理」の取り組みを前進させる秘訣があるのだろう。「青春の日々にこそ、お前の創造主を心に留めよ。苦しみの日々が来ないうちに」(コヘレトの言葉12・1)

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2011年11月 9日 (水)

法然と親鸞

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東京国立博物館で「法然と親鸞 ゆかりの名宝」特別展を見た。教えられたこと。信仰は発見であるかも知れないが、発明ではない。二人とも、自分の信仰の由来を明確に知っていて、表明している。

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2011年9月22日 (木)

ヨナ

地震、津波、原発、そして今度は台風。日本という小舟を沈没させようと、大自然が猛威をふるっているかのようだ。

ヨナの物語を思う。ヨナが乗船したために、船が自然の猛威にさらされて転覆しそうになった。その原因を探り、ヨナの不従順が浮かび上がった。そんなことを思いつつ、まさか、日本の中にヨナが隠れ潜んでいるのではないだろうか。

以前、ある高名な宗教評論家の方が、日本のキリスト教の現状を「風景の宗教」と言っていた。風景というのは、ある意味、化石化しているということかも知れない。化石は過去の命を伝えている。

生きるには、現在の諸条件を考えることが必要なのだろう。しかし、化石が永遠の命を伝えるものであれば、それは現代に生かすのも可能かも知れない。

もし、日本の中にヨナがいるのだとしたら、それは現在の教会なのだろう。教会が悔い改め、神に立ち返る時、再び、その声を聞くだろう。そして、覚醒の時が来るだろう。

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