2014年3月12日 (水)

内村鑑三の「実験」とは

「内村鑑三の言う実験とは何ですか?」

「まず新生のこと、そして聖化も含まれるでしょう。次に栄化への望みがあります。栄化への望みは未来に関わることなので、実験はないかも知れませんが、それでも望みの果は一つの実験として理解できると思います」

「内村鑑三の言う実験と一般的な実験とは、どこが違うんですか?」

「一般的な実験では実験者が実験台にはならないんですが、内村の場合には、あなたが実験台になりなさいという含意があるんです。内村は、実験について、次のように言っています」

「キリスト教は理論ではなく事実であり、実験である。理論だけでキリスト教を悟ろうとするのは、理論だけで化学を研究しようとするようなものである。理論だけでは、私たちはとうていキリスト教がなんであるかを了解することはできない」

「キリスト教は理屈ではなくして実験でありますから、これを宣べ伝うるためのもっとも有力なる方法は、自己を標本としてこれを世に示すにあります」

| | コメント (2)

2011年5月 1日 (日)

内村鑑三と精華学園

内村鑑三の伝記に、女子独立学校の名前は出てくるが、精華学園の名前は、普通は出てこない。しかし、精華学園の歴史を引き継ぐ東海大学付属望洋高等学校には、内村鑑三の名前が出てくる。

内村の伝記の中では、「明治32年(1899)7月、私立女子独立学校長を託される。明治33年(1900)9月、女子独立学校辞任。」とある。

一方、東海大学付属望洋高等学校のウィキペディア紹介文によれば、「1883年、キリスト教徒の加藤とし子により、女子独立学校として東京都新宿区角筈に開校。1898年に精華学園となり、翌年には内村鑑三が校長に就任。その後、勝田孫弥が校長を引き受け、1910年に精華高等女学校と改称した。」とある。

したがって、内村が女子独立学校長になった時には、すでに「精華学園」という名前が使われていたことになる。なぜ、内村の伝記に、この精華の名が出てこないのだろうか。

| | コメント (0)

2011年3月18日 (金)

実験

内村鑑三は実験という言葉をよく使っていた。もちろん、自然科学的な意味ではない。信仰の結果として、内心に現れる変化を意味していたのではないだろうか。それは聖霊の働きである。聖霊の賜物といった多様性の展開ではなく、救いの根本にかかわる聖霊の働きであったように思う。

実験といっても、神を試みるといった意図はなかったと思うが、信仰が根本的救いを起こさず、ただ自力救済の繰り返しの試みではないと強調したかったのではないだろうか。いくらか、信仰への勧めとして、促す意味は実験の言葉に含まれていたかも知れない。

実験は、信仰に何かが付加したものである。信仰は信じて仰ぐこと、その後、何かが起きる。その何かが信仰の真実を証明するという意味が込められているのだろう。

さて、罪と罰は原因と結果の関係でつながっている。旧約聖書の中には、そういう発想がある。だから、そういう発想は間違いだと一概に言い切ってしまえないかも知れない。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ人への手紙6・23)とある。しかし、一方、イエスは、そのような現実を前にして、それは神のみわざの現れるため、ともいう。

「弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネによる福音書9・2~3)。

そのように言える背景に、十字架の死の意味があるのだろう。そこに、犠牲の意味が込められている。

犠牲とは経験している不幸の原因が自分にないということなのだろう。そのため、結果としての罰を受けていることから、原因・結果の原理を遡って、原因としての罪を他者の罪と交換できるということなのではないだろうか。それが贖いなのだろう。そして、そこに救いがあるのだろう。その現実が現れるのが、神のみわざなのではないだろうか。

イエスに罪があったのであれば、十字架の苦難と死は自分(イエス)のためであった。しかし、イエスに罪はなかった。そこで、十字架は他者の罪を処理する能力を持っている。この事実が福音、それを知らせるのが宣教、その適用が信仰なのだろう。

内村鑑三の実験には、信仰は信じて仰ぐこと、その後、何かが起きる、その何かが信仰の真実を証明するという意味が込められているのだろう。

| | コメント (0)

2011年2月15日 (火)

新刊『信徒 内村鑑三』

書店で、内村鑑三に関する新刊を見つけ、早速、購入しました。『信徒 内村鑑三』(前田英樹著、河出ブックス)です。著者は、「はしがき」で、「私は、キリスト教徒ではまったくないが」といいますが、よく、これまで深く、内村の信仰思想に入り込むことができたものだと感心しています。

内村の生涯を、著者の評論を交えてたどっています。よく知られた物語ではあっても、内村の文章の力を今度も感じています。著者も、その魅力を感じ続けてきたようです。はしがきに「内村鑑三という人は、私にはたまらなく面白く、ずっと心を惹きつけられてきた」と書いていますが、同じような思いの人は多いと思います。

一読し、やはり、再臨論に関心がありました。「第十章 キリスト再臨の地、日本」との項目があり、びっくりしました。内村が、このように明言していただろうか。しかし、著者は、内村の文章を、そのように受け取っています。議論があるかもしれません。

それから、日ユ同祖論に関する言及も、わずかですが、あります。「日本人に「イスラエルの血」が混じっている、という考えを、彼は歴史上の真実としても深く信じていたようである」(41頁)として、「日本の天職」の末尾にある「附録」の、次のような文章を引用しています。

「日本人の内にユダヤ人の血が流れて居るとは早くより学者の唱へた所である」

再臨については、「内村が、キリスト再臨を最も盛んに唱えていた1918年頃、彼はこの再臨が再びユダヤ人たちのなかに起こるものと、漠然とだが考えていたようである」(217頁)とあります。それが、米国の「排日法案」のあと、「キリスト再臨は、何と日本でこそ起こると、彼は考えるようになる」(218頁)と著者はいいます。この根拠に、1924年11月10日発行の『聖書之研究』に掲載された「日本の天職」を挙げています。

そこでは、「詩篇110篇3節」の言葉が取り上げられ、その意味として、「彼れキリストが最後に世を治め給ふ時に、極東日出る国の彼の弟子等が其熱心熱誠を以て彼に仕へまつり、彼の聖旨をして此世に成らしむべし」と解釈し、その「極東日出る国」を日本とみてもいいというのです。

同じ再臨運動を展開した中田重治にも、そんな解釈があったかも知れません。また統一教会の文鮮明氏の著書にも、この個所への言及があったかも知れません。もちろん、文氏が再臨主という立場ではありますが。

それにしても、無教会の未来には一部に悲観論がありますが、内村鑑三論は今も続いていて、こちらは当分なくなる気配はありません。実に不思議な現象が極東の小島に起きていると思わずにおれません。

それは、内村の問題意識が今も多くの人(キリスト者、日本人)の課題であり続けているし、再臨はなお待ち望む出来事であれば、その時まで、内村はこの国のキリスト者たちに覚えられ続けるからだと思います。

それにしても、内村が今、生きていれば、日本に関して何を言うだろうかと思います。特に、原爆の投下について、何かの預言の成就なのか、聞きたい思いがします。

| | コメント (1)

2011年1月 3日 (月)

初夢

内村鑑三の「初夢」は、以下のようなものでした。

恩恵(めぐみ)の露、富士山頂に降り、滴(したた)ってその麓をうるおし、溢れて東西の二流となり、その西もものは海を渡り、長白山(ちょうはんさん)を洗い、崑崙山(こんろんざん)を浸し、天山、ヒマラヤの麓に灌漑(みずそそ)ぎ、ユダの曠野(あれの)に至って尽きた。その東のものは大洋を横断し、ロッキーの麓に黄金崇拝の火を滅ぼし、ミシシッピー、ハドソンの岸に神の聖殿(みや)を潔め、大西洋の水に合して消えた。アルプスの嶺はこれを見て曙(あけぼの)の星とともに声を放って謡(うた)い、サハラの砂漠は喜んで蕃紅(さふらん)の花のように咲き、こうして水が大洋を覆うように主を知る知識は全地に充ち、この世は化してキリストの王国となった。私は睡眠(ねむり)より覚め、独(ひと)り大声で呼んで言う、「アーメン、どうか聖旨の天に成るように地にも成らせよ」と。

冒頭、「恩恵の露、富士山頂に降り」とあります。その意味するところは深いかも知れません。単なる日本中心の思想ではなく、神秘的日本の洞察があるのかも知れません。内村は、どこかで、ミステリアス・ジャパンと言っていたように思います。

そのあとに、「滴ってその麓をうるおし、溢れて東西の二流となり」と続きます。すなわち、麓、日本を生気づけ、やがて、溢れて、外国に流れていくという意味でしょうか。「うるおし、溢れて」という個所を思う時、宣教というものは、まず受け止めた者を満足させて、その満足が溢れて、その過程で成り立つものだという意味かも知れません。日本に神の恵みが溢れる時、それは当然、外の国々に流れていきます。だから、宣教の条件は、神の恵みをいっぱいに受け取ること、それを自分の中で溢れさせることかも知れません。

| | コメント (1)

2010年12月10日 (金)

内村鑑三と日ユ同祖論

再臨運動を展開した人に、内村鑑三と中田重治がいた。中田は日ユ同祖論の影響を受けていた。内村には、そのような言及はないと思うが、その影響は全くなかったのだろうか。

内村鑑三は日ユ同祖論を支持していないが、両民族の民族性はよく似ていると指摘しているという。日ユ同質論者という人もいる。ベン・アミー・シロニーも同じ立場らしい。

日ユ同祖論については、多くの本が出ている。教会の一部は関心を持っているが、大部分は無視しているようでもある。真相はどうなのだろうか。

| | コメント (0)

2010年7月27日 (火)

無教会主義の継承

内村鑑三の後継者たちの事業を思う時、聖書の研究者を挙げることができると思う。塚本虎二の本で、何とか異動一覧という大きな本があった。故高橋三郎氏が紹介されていて、一冊買った。内村の機関誌の名前が「聖書の研究」であり、弟子の中には、知識人が多かったので、聖書の研究者が多く輩出したのは当然なのかも知れない。しかし、この関心が無教会主義の本質かと言われれば、いや、違うかも知れないと思う。故高橋三郎氏は、無教会の中では、信仰の本質について熟考されていた方という印象が残っている。無教会主義のあり方についても、多く発言されていた。今、そのような人はなかなか見当たらなくなったかも知れない。

私は、無教会主義の本質というのは、預言者の伝統の中に生きることなのだと思う。預言者といえば、旧約の預言者に限定されると思うかも知れないが、聖霊の賜物の中には「預言」がある。だから、新約の、キリスト教の歴史の中でも、「預言」の実践は可能なのではないだろうか。

預言は予言ではない。重なる面もあるが、違う面もある。将来の事柄に関する発言では同じであっても、その発言が現在の倫理的生き方を誘発するかどうかという点で、違いが起きる。予言の中には、それがない。ただ、世間を騒がすのが目的のように思われる。一方、預言には、現在の生き方を改革し、改善し、発展させる力がある。だから、預言と予言は注意深く区別しなければならない。

キリスト教の歴史を見れば、預言を予言の中で解釈しようとした試みを知ることができる。再臨の日を特定した教派があった。しかし、再臨はなかった。預言と予言の混同のようにも思える。

無教会主義の本質ということで、私が思うことは、新約の預言者の輩出が、その使命なのではないかということである。内村鑑三が近代日本キリスト教史で最大の人物であったと思うのは、その預言活動のためではなかったであろうか。預言は神の言葉であれば、それは廃れないのである。

では、新約の預言者は、どのようにして生まれるのだろうか。それは再臨信仰の実践を意味している。内村の始めた再臨運動は短期間で終わってしまったけれど、『聖書の研究』終刊号を見れば、心残りがあったのが分かる。再臨信仰の日常的実践の中に、新約の預言者は輩出し、内村の思いは継承されていくのであろうと思う。

| | コメント (0)

2010年6月 3日 (木)

個人の力

キェルケゴールは「現代の批判」の中で、こんなことを言っている。

「ひとりひとりの個人が、全世界を敵にまわしててもびくともしない倫理的な態度を自分自身の中に獲得したとき、そのときはじめて真に結合するということが言えるのであって、そうではなくて、ひとりひとりでは弱い人間がいくら結合したところで、子供どうしが結婚するのと同じように醜く、かつ有害なものとなるだけのことだろう」

内村鑑三はキェルケゴールについて言及するところがあるけれど、この部分などは、大いに共鳴したのではないだろうか。

| | コメント (0)

2010年4月27日 (火)

多重人格

遠藤周作は多重人格者に理解があった。内村鑑三を多重人格者ということはできないが、真理の多面性については理解があったと思う。晩年、後継者と考えられていた塚本虎二は、真理の多面性ではなく、一面性の強調の中で、教会との対立・対決へと進む意識が大きくなっていった。岩下壮一との紙上論争も、その一つの表れであったのではないだろうか。そこに、内村は違和感を覚えたのではないだろうか。

| | コメント (0)

2010年2月22日 (月)

仰瞻

内村は、シーリーから、自分の心をばかり覗くのではなくて、十字架を仰げと言われ、回心を経験した。仰瞻(ぎょうせん)という言葉で、それは表現されている。「あおぎみること」という意味である。そして、聖化の道が始まった。やがて、その道にも、行き詰まりの時が来た。そこに、再臨信仰の気づきの時が来た。聖化の道を行く者における仰瞻の信仰の再興である。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧