2017年1月16日 (月)

原理主義

■「原理主義者にないのは何だろうか?」
「対話する能力かな。キリスト教では、最初は米国で自由主義の信仰を批判する言論活動として始まったんだ。そこには反論という対話があった。けど、イスラム原理主義にはそれがない。だから、対話の場の再建が大切だよ」
 
■「キリスト教原理主義や聖書の逐語霊感説に対する批判があるけど、どうなの?」
「批判される文脈があるのかも知れないけど、これは経験しないと分からないだろうね。それらはカルトの原因と断定されると、それはちょっと違うかもね。福音派はカルトじゃないからね」

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2017年1月11日 (水)

日本の伝道

■「日本で、キリスト教の伝道が進まないのはどうしてだろうか?」
「キリスト教を世界観、歴史観として説明できていないからじゃないかな。救いを新生に止めているか、あるいは聖化まで進めているか、その程度で伝道しているんじゃないかな。黙示録まで進まないとだめなんだろうね」
 
■「日本に神道や仏教があるのはキリスト教の伝道にとって壁なんだろうか?」
「そう考える人は多いかも知れないね。けど、理解が進むと、意外に似ているところに気づくかも知れない。伝えられたキリスト教には、そんな要素は皆無。だから、日本はキリスト教にとって新しい経験の場だよ」
 
■「キリスト教と言っても教派が多くて、どれを選んだらいいのか迷っちゃうよね。どうしたらいい?」
「最初は福音の根本的な教えを受け入れて信仰を持つんじゃないかな。そのうちに教えの解釈の多様性、教派問題にぶつかる。それは今でも教会全体の問題、課題なんで、あなただけの問題ではないよ」
 
■「キリスト教概論とかキリスト教問答とかあるけど、それらを学べばキリスト教が分かるんだろうか?」
「ある程度は分かるけど、自分に意味ある学びは聖霊に導かれ、教えられるんだから、聖霊降臨の出来事が自分にも起きなければならない。それが深く知るためには不可欠」
 
■「教会の概念に、いくつかあるって、どういうこと?」
「キリストのからだとしての教会、それに、漁師の網としての教会だよ。見えない、見える、という区別もあるよ。それをごっちゃにはできないだろうけど、教会と言っているんだ」
 
■「一神教の抱える難問って何?」
「一神教はキリスト教だけではないよ。ユダヤ教もあるし、イスラム教もあるんだ。パウロのサウロ時代はどうだったか。イスラム教との関係では中世に十字軍があり、その反省からドミニコ会ができた。イスラム教との関係は現代の問題でもあるよ」
 
■「キリスト教関連の動画の中には、新生の瞬間にまで導く内容のものもあるけど、どう?」
「実際に、その瞬間を経験する人がいるかも知れないよ。しかし、その後が問題。教会の交わりが必要なんだけど、それをどうするかが課題。新生はしたけれど、ほっといたら、とても危険だ」
 
■「内村鑑三はキリスト教以外の宗教でも関心持たれているの?」
「幸福の科学の出版社から、内村鑑三の伝道論の本があったよ。内村の言葉をまとめただけで、著書の考えを知りたかったけど、なかった。どういうつもりなのか、批判ではなく、評価の結果かな」
 
■「ヨナのしるしって何だろう?」
「ヨナが大魚の中にいたけど、そこから出たことが、イエスの死と復活のしるしと見ているんだろうね。しかし、ニネベの人たちの悔い改めも、あるいは異邦人の悔い改め、すなわちキリスト教会の誕生と発展を意味しているのかも知れない。最近、気づいたんだけど」
 

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2013年9月21日 (土)

角筈女学校のこと

女子独立学校が角筈女学校に改称されたことがあるという。その校長は、加藤勝弥で、創立者の加藤トシ子の子。加藤勝弥は、北越学館の館主であり、内村鑑三は、その教頭であった。不思議な縁である。この学校がどこにあったのか、調べたい。こんな記述があった。(東海大学付属望洋高校の資料だったか)
「1883年にキリスト教徒の教育者である加藤とし子によって女子独立学校として東京都新宿区角筈[1]に開校した。1898年に精華学園となり、翌年には内村鑑三が校長に就任。その後、勝田孫弥が同校を引き受け1910年に精華高等女学校と改称した。戦後の学制改革で精華学園女子高等学校となる。この頃の精華学園は歌手や女優が多く通っていたが、西新宿一帯の再開発のあおりで1969年に新宿区柏木(現在の北新宿1丁目)に移転。更に1973年に千葉県市原市の現在地に移転して精華女子高等学校と改称するなど、変転を辿った。1974年に東海大学と提携し、東海大学総長の松前重義が精華学園理事長に就任した[2]。翌年に東海精華女子高等学校(校長・鈴木哲子[3])と改称し、1977年には「東海大学精華女子高等学校」に校名を変更。1986年には男女共学化に伴い校名を「東海大学付属望洋高等学校」に変更し、現在に至る。学校法人精華学園は一時兄弟校である東海大学付属浦安高等学校・中等部の移管を受け、千葉県内の東海大学学園の運営母体を担っていたが、現在は学校法人東海大学に統合・編入されている。」

★[1]女子独立学校が開設された地は、現在の西新宿1丁目6番地・新宿エルタワーの所在地とのことである。

★[2]松前重義が内村の聖書研究会に参加・師事し、恩師である内村が校長を務めていた縁から精華学園の運営を引き受けたと言われている。

★精華学園には、美空ひばり、星由里子、小川知子、吉永小百合、落合恵子、中尾ミエなどが学んだ。

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2012年11月15日 (木)

カリタスの意味?

カトリック教会に「カリタス・ジャパン」という団体がある。カリタスという言葉は、その意味はともかく、福祉とか愛とかに関係していると理解されている。辞書によれば、これはラテン語で、「人類愛のこと」「ギリシャ語のアガペーにあたる」「聖愛、愛徳、何よりも神を愛し、それゆえに隣人を愛する心」といった説明がある。
しかし、『アガペーとエロース』で、著者のニーグレンは、カリタスとアガペーを区別して、こう言う。
「エロースとアガペーの流れはアウグスティヌスにおいて出会った。その結果エロースでもアガペーでもない第三のもの、即ちカリタスを生み出した。カリタスは二つの要素を含みながら、新しい統一体を形づくっている」
辞書ではカリタスはアガペーと言っているが、ニーグレンは、いや違うという。さて。

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「太陽の下には新しきものなし」

「もしも、われわれが人類の思想史を概観するならば、太陽の下には新しきものなし、という古い諺が真実であるという、生々しい印象を受けるのである。そこにはほんのわずかばかりの観念か、テーマがあって、それが絶えず新しい変奏曲や組み合わせになって再現しているが、古いテーマが依然として認められる、といった有様なのである。思想史のごく初期に、われわれは真、善、美、なかんずく永遠について問われている重要な根本的な問題--すなわち、知識、美学、倫理学、宗教の問題--を見出す。われわれの西洋文明にとって、これらの問題の代表的な論述は、プラトンのそれである。彼は棟梁である。けれども、彼の工事材料は、彼の時代より以前、長期間にわたって収集されてきたのである。そして、問いが問われる形式において、歴史が生じさせてきたあらゆる変化にかかわらず、われわれはやはり、人類は、今でもこれらの同じ問題にかかずらっている、と言うことができるのだ」(『アガペーとエロース』ニーグレン)

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2012年11月13日 (火)

アウグスチヌスをどう見るか?

「アウグスチヌスはプロテスタント側からは宗教改革思想の先駆者の一人と見られている。それは、ご自身の選びたもうた者を必ず救いたもう神の絶対主権による恵みの結果として、人間が原罪から救われるということを強調しているからである。しかし、人間がどういうふうに救われるかについての議論について、アウグスチヌスは、見える制度としての教会と、その信条と礼典と伝道とをあまりにも強調しているので、ローマ教会はかれをローマ・カトリック主義の父と見ている。かれがこのように強調したのは、一方には、ペラギウス派の主張を、他方にはドナトゥス派の主張を破るためであったことを、心に留めるべきであろう。聖書の部分を解釈するのに聖書全体の主張を考慮しなければならないというかれの主張は、教会にとって永久的価値のある原理となっている。
 これらの永久的功績があるにもかかわらず、アウグスチヌスはキリスト教の思潮のなかへ、いくつかの過誤を持ち込んだ。かれは煉獄の教義と、それにともなうすべての害悪とを発展させるのに力があった。バプテスマと聖餐式の二礼典の価値を重んじた彼の見方の論理的な結果として、バプテスマによる更正と聖餐式による恵みとが強調された。
 アウグスチヌスのこうした強調のゆえに、キリスト教会にとってのかれの重要性を無視すべきではない。パウロとルターとの間において、教会には、アウグスチヌス以上に偉大な道徳上および精神上の人物はいないのである」(『基督教全史』E.E.ケァンズ著から)

「ハルナックは、宗教改革運動は、教理の面では改革であり、教会組織の面ではまさに革命であったと見ている。それは、宗教のもっとも深い本質において立派な革命であった。ただわれわれは、この革命の真の教師が、ローマ教会最大の教師である、アウグスティヌス自身にほかならなかったことを主張するのである」(『キリスト教』岡田稔著、小峯書店、65頁)

山田晶氏(故人)の『在りて在る者』という本の中に、アウグスチヌスについての、こんな言葉がある。
「また彼の「恩恵論」についていえば、私は古来多くの人々がこの問題について論争し、互いに自己を主張し相手を否定しながら、いわば「恩恵なき恩恵論争」controversia degratia sine gratia の泥沼の中にもろともに沈みこんでいったことを知っていた。私は自分の研究が神の恩恵によってみちびかれることをいつも祈念していたが、「恩恵」そのものについて論ずることは差控えたいと思った。私はあえてこの危険な泥沼に近づくことを避けたのである」(ⅱ まえがき)
 また、同じ本の中に、こんな個所もある。
「回心以後に書かれた対話篇がプロティノス的であるということから、この回心の真実性を疑い、それは「ネオ・プラトニスムへの回心」であるとか、「形而上学への回心」であるとかいう人があるが、その人々は「回心」の真の意味を知らないのである。回心以後、アウグスティヌスは哲学を捨てたのではない。キリストに回心した以上、「哲学」を捨てなければならないと考えるのは一つの偏見である」(ⅹⅴ まえがき)

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2012年10月12日 (金)

賀川豊彦とカトリシズム

 賀川豊彦は内村鑑三同様、日本のプロテスタント史上、忘れることのできない大人物であった。内村がどちらかと言えば書斎と講壇の人であったのに対して、賀川は実践の人であった。
 賀川は堅い改革派信仰を持った米人宣教師に見出され、初めは改革派教会の信仰の中で育てられていった。しかし、信条的堅さよりも、心情の深さ、広さ、高さに秀でていた賀川は終生、神学者カルビンには余り関心がなかったようだ。彼が<衣鉢を継ぐ>として常に念頭に置いていたのは、ジュン・ウェスレーとアシジの聖フランシスコであった。彼が、その創設にあずかり、常に、その団体の第一の指導者と目されていた「イエスの友の会」は、フランシスコ会の第三会(信徒会)をモデルにしているのである。
 賀川はカトリック神学に興味を持っていたとは思われない。内村は本質を見抜く力に秀でていたために、プロテスタント信仰を突き詰め、その中でカトリックに対して同情と共鳴を示すこともあった。教会問題に関する内心の揺れに対して、内村は、生涯の終わり近く、プロテスタント主義の徹底を叫ぶことで決着をつけたのだが、いずれにしても内村においてはカトリックは生涯、頭から離れず、悩まされ続けたのではないかと思われる。しかし、賀川には、このようなカトリックとの対決とか、受容といったことは、生涯、明確に意識されていなかったであろう。
 彼はプロテスタントの運命にひきずられ、時にプロテスタントの枠を超えて、新しい時代、新しい世界を待ち望み、そのために奮闘した。それらは巨大な実践となって現れていったが、その動機が、どのようにプロテスタント信仰と結びつくのか理解しにくい面があって、周囲の誤解を招いたこともあった。牧師としての賀川は、彼の出身教会である日本基督教会の平均的な牧師像からは余りにもかけ離れていたために、一部の同僚牧師から軽んじられ、批判もされた。しかし、そこにはプロテスタンティズムの歴史的制約をも超える、彼の先見性があったのではないだろうか。この新世界の預言者としての賀川の中にカトリシズムが潜んでいるのだ。彼を大きく羽ばたかせていったのは、この隠されたカトリシズムが彼の中で力強く働いていたためであった。
 賀川のキリスト教において顕著な特徴は、その社会性である。それは教会内部の社会性といったものではなく、人間全体、人類といったもので、彼は常にこの意識を持っていた。これは、果たしてプロテスタンティズムから自然に流れ出てくる観念なのだろうか。プロテスタンティズムの運命はピューリタニズムや無教会に流れていくのであり、それは分離や個人主義化へと常に向かっている。従って賀川の中に総合への志向、人類全体への視座があるとしたら、ここにはプロテスタンティズムへの反省があるのである。狭い教派主義、信条主義で壁ができているプロテスタント世界の中で、賀川を異様に大きく映し出したもの、それはプロテスタンティズムへの反省としてのカトリシズムの真理契機ではなかったであろうか。
 賀川の謎を解く鍵はどこにあるのだろうか。それは協同組合である、と私は考えている。賀川の社会理論は協同組合主義である。彼は、これが資本主義の弊害を克服する最善の、唯一の道であると考えた。そして、これは資本主義だけではなく、近代の分裂国家群のもたらす弊害をも克服し、新しき中世をもたらすダイナミズムでもあったのだ。
 協同組合は確かに資本主義の弊害を克服する社会理論として現れてきたが、ルネッサンス期のユートピア思想の影響も受け、新しい社会へのロマンチシズムを常に内にたたえていたのである。それは、ヨーロッパ近代が失ったキリスト教共同体(コルプス・クリスチアーヌム)への新たなる再建へと霊感されていたのである。
 賀川は戦後、世界連邦運動に走った。これも、彼の協同組合理論の一つの展開であった。ここにおいては、全人類が一つの共同体に属するという思想が現れている。これは現在、着々と実現されてきているではないか。科学・技術の進歩により、<国際化>の波が怒濤のように押し寄せてきているのが現代社会である。誰も、この力を妨げることはできない。と言うことは、世界連邦とあえて言わずとも、世界は着実にその方向に向かっているのである。
 世界性、国際性、普遍性--こう言った観念が常に賀川の中にあった。私は、これを、彼の中に隠されていたカトリシズムと呼ぶのである。協同組合をキリスト教的に見て、どう評価するか? こういった問題意識は、どうしてプロテスタント信仰の中から生まれてくるのだろうか。しかし、カトリック世界では、社会理論の検討の中で、協同組合には高い評価が与えられている。賀川が協同組合主義者であったが故に、プロテスタント世界では対話の相手を狭めたとすれば、逆に、この思想はカトリック世界では対話の相手を広げるきっかけになるのだ。
 キリスト教は確かに魂の救いが大事である。これはプロテスタントの主張する大切な真理である。しかし、人間は一人では生きていけない存在であり、社会を形成しなければ生存を全うできない。この社会性をプロテスタント信仰の中で、どう位置づけるのか。
 内村はプロテスタント信仰に忠実に生きたが故に社会性を犠牲にし、賀川は社会性に目覚めたが故にプロテスタント世界では異様に映ったと言えようか。そして、この社会性への顧慮、包括的・総合的な視座こそがカトリック的なのである。教皇も、公会議も常に人類全体への視座を持っている。賀川が一般的なプロテスタント意識の中で異様なるものとして映るとしたら、それは彼の中に秘められているカトリシズムの故である。

(注)
 賀川は、どうして日本のキリスト教会から高い理解を得られなかったのか。それは、彼のキリスト教的な、信仰的な論理と世俗的・協同組合的論理との接点が理解できなかったからである。
 もし、世俗的・協同組合的論理をキリスト教的な、信仰的な論理に従属させたら、日本のキリスト教会も理解したであろう。カトリックには、それができたのだが、プロテスタンティズムには、世俗的・協同組合的論理を理解する視点が明確になっていなかったのではないか。
 要するに賀川のビジョンというものが、どうしてキリスト教的であるのか、信仰の隣人たちには、十分に理解できなかったのだ。いや、それはキリスト教的であったにしろ、どうして教会的であったのか分からなかったのだ。
 賀川のビジョンをキリスト教的に位置づけること、これが出来れば、カトリックとプロテスタントとの新しい関係、理解が進むであろう。

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2012年10月11日 (木)

一カトリック信徒の日露戦争回想

 もし日露戦争がなかったら、上智や聖心といったカトリックの大学はなかったかも知れないし、イエズス会の再来も、違ったものとなったであろう。
 イエズス会の日本再来は、大学(上智大学という名前になった)設立が目的で、管区は、その後に出来たのである。普通は、宣教師が来て、教会の設立と共に教育活動が始まり、それから教育機関としての大学などが出来るのであるが、イエズス会の日本再来には大学の設置という目的が既にあったのである。
 しかも、これがカトリック教会やイエズス会の一方的な宣教方針の中で始まったのではなくして、日本の中の識者が、それを望んだということが大切なことである。また、その設立希望の趣旨の中に、プロテスタント的体質が革命に流れることへの「歯止め」のような意図があったことも面白い。
 そして、ここでは、カトリックが日本の国体と合致するとまで言われているのである。このような背景を見ると、こうして出来た大学(上智大学)に井上哲次郎氏が哲学教授になったことも理解できなくはない。
 大正時代にイエズス会が創立した上智大学は、カトリックとして日本最初の高等教育機関となった。この創立の経緯については、山口鹿三氏が貴重な記録を残しているので、それを参考にして紹介する。
 日本は日露戦争に勝利して、米国の斡旋により米国・ポーツマスで講和条約を締結した。時の教皇・ピオ10世は、この平和回復を祝して、また戦争中、日本・中国・満州で、日本がカトリック教会をよく保護したことに感謝しようと、特使を派遣してきたのである。
 教皇使節の日本派遣の理由を考えて、どうしてと思わざるをえない。それは、カトリック教会がパリ・ミッションの独占宣教下にあったので、三国干渉で、日本とフランスとは対立し、また日露戦争で、フランスはロシア側であったので、この当時のカトリック教会は小さくなっていなければならなかったのである。そう考えると、教皇使節の派遣も理解できるようになる。
 教皇特使は米国・ポートランドのオコネル司教(のちボストン大司教で枢機卿になった)であった。
 オコネル司教は1905年(明治38年)10月31日、二人の秘書とともに入京し、帝国ホテルに宿を取った。司教は11月10日に明治天皇に拝謁し、ピオ10世の親書を奉呈した。
 この来日に関して、オコネル司教は歓迎されたが、日本のカトリック教会はフランス一色であったために、使節との関わりは日本のカトリック教会ではなくして、平信徒の山口鹿三氏があたることとなった。フランスは当時、ロシア側についていて、日本との政治的関係は難しかったのであろう。
 使節のサップル師は山口鹿三氏と手紙の交換などして、準備にあたった。
 使節の講演会は、築地の司教座聖堂で二回、神田基督教青年会で一回、帝国教育会で一回、行われた。神田基督教青年会では政治家の島田三郎氏や東京帝国大学教授の姉崎正治博士が歓迎の演説をした。
 日刊紙「日本」の主筆・三宅雄二郎博士は社説の中で、日本でのカトリック宣教を実り多いものにするには高等教育機関の設置が必要であると力説していた。 また、桂太郎首相も使節歓迎会の席上で、カトリックの学校、高等専門学校の設立を強く訴えていた。桂内閣の樹立に関して、徳富蘇峰が一枚からんでいる。そして、文教関係の役割を持っていたのである。桂太郎首相の意見に徳富の見解が反映されていなかったであろうか。
 さて、これほどまでカトリックの大学が求められた理由について、山口氏はこう記している。
「然るに我国の識者は自由主義のプロテスタント教は革命に傾く危険あるに反し、カトリック教の権威主義は主権と伝統と従順を重んじ日本の国体に合致することを認め、カトリックの高等学校設立を希望し使節に之を進言したのであります」
 オコネル司教はローマに帰り、このことを詳しく教皇に報告した。そこで、教皇は、この進言を受け入れて、男子の高等教育のためにイエズス会、女子教育のために聖心会を日本に派遣したのである。そして、明治41年10月16日に英国人ロックリフ師を首班とする三人のイエズス会員が日本に着いた。こうして、上智大学、そして聖心女子大学が出来たのである。
 さて、日露戦争は日本のカトリック宣教にとって、もう一つの重要な景気となった。それは、開国以来、日本のカトリック宣教はパリ・ミッションが一手に担ってきたが、戦争勃発を機に、明治37年、四国地方をフィリピンのロザリオ管区のスペイン系ドミニコ会にゆずったことである。こうして、パリ・ミッションの単独宣教時代は終わり、多数宣教会の時代に移ったのである。
 日露戦争についてのカトリックの記憶というものは、上智、聖心というカトリック高等教育機関の設立、そしてパリ・ミッションの単独宣教時代は終わりであろう。

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2011年8月 8日 (月)

福音派回想

昔、宗教改革の意義を考えていた。本によれば、キリスト教におけるギリシャの影響を排除しようとしたのが宗教改革の意図であったという。確かに中世はギリシャ思想なしには考えられない。

ギリシャとは何か、それは人間の立場である。普遍的な人間の立場の追求である。だから、そこでは、西洋、東洋は問われていない。東洋の我々にも、だから、ギリシャは意義がある、という発見が、だいぶ後になって訪れた。

それに、もう一つあった。それは新約聖書原文はギリシャ語で書かれていること。これもまたギリシャ再考の一つの契機かも知れない。

その後、宗教改革が起きて、プロテスタント教会が誕生、しかし、いろいろと教派が生まれた。その総括は、どうやったらいいのだろうか。

最近、ツイッターにこんな情報が流れた。

「戦後の時点でエキュメニカル派(リベラル派)対福音派(聖書信仰派)の比率が26対1であったものが、1990年の時点では5対5になっていた」

福音派が戦後、成長したという。昔、そういう環境にいたので、さもありなん、と思う。聖歌は、よく歌った。今は、そんな機会はない。福音派は明治のキリスト者の言葉で言えば、実験的宗教の鼓吹者たちだろう。

最近のニュースでは、福音派の世界的指導者の一人、ジョン・ストット氏が逝去した。英国教会の司祭だった。

英国教会の司祭で、福音派の強力な指導者になった人では、古くはバークレー・バックストンがいる。そういえば、ジョン・ウェスレーも、英国教会司祭だった。

聖書観について、バルト、植村正久、小崎弘道など、福音派と対立するリベラルだと言われるが、三人とも聖書に実存的に向き合っていると思う。それがなくなれば、別の問題が出てきそうだ。実存的を個人的、恣意的と繋げるのは、一部の可能性だと思う。

福音派と原理主義、それは違うものだが、福音派の中に原理主義が含まれていて、同一に見る人たちも増えたかも知れない。

福音派の中で原理主義的な臭いを発散させていたのは、会津若松出身のM牧師であったかも知れない。もっとも相手はリベラルではなく、他宗教だった。その博識に驚いたことを覚えている。

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2011年7月31日 (日)

十字架の意味

日本人はよく謝罪する。謝罪する人は善人なのだろうか、悪人なのだろうか。善人なら謝罪の必要はないだろう。悪いことをしたから謝罪するのではないだろうか。

前教皇も世紀末に謝罪したことがあった。恐らく、本人ではなく、教会が悪いことをしてきたから、その代表として謝罪したのだろう。日本には悪人正機という教えもある。

十字架というのは、神(御父)の人間に対する謝罪の表明なのかも知れない。私もまた十字架を信じ続けることを通して、隣人に対する謝罪を表明し続けたい。

この神については、全知全能、愛なるお方だから、誰も滅びるはずがない、みんな救われる、と考える人がいるかも知れない。論理的には間違っていないようだし、万人救済説というのもある。しかし、現実は違うように思う。それを見ると、現実においては、神は泣いているように思う。十字架に、その思いを察することができる。

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