2011年7月26日 (火)

法然と親鸞

法然は「おまかせします」の姿勢、親鸞は「まかせて欲しい」という仏を知ること。法然と親鸞の違いは、どこかルターとカルヴァンの違いに類似している。

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2011年7月11日 (月)

有名人の受洗

四半世紀前に、京都の一灯園に行ったことがある。創立者・西田天香さんの質素な生活に見習いたい。その西田さんが洗礼を受けていたと知ってビックリした。と゜うやら本当らしい。
http://sites.google.com/site/tomaozaki/Home/toumei-tusin/tu201101

それに、菅総理の師匠筋に当たる市川房枝さんは組合教会で洗礼を受けたらしい。しかし、ユニテリアンとしての一面もあるらしい。その信仰が余り知られていないのは、そのためなのだろうか。
http://www.asyura.com/0403/idletalk9/msg/216.html

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2011年6月15日 (水)

親鸞没後750年

今年は親鸞の没後750年にあたる。書店には、山折哲雄さんの『法然と親鸞』というタイトルの本があった。また、6月15日(水)午後10時からは、NHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」で、法然と親鸞がテーマになっている。『文芸春秋』7月号でも、「親鸞に学ぶ生と死」で、大谷暢順、野村萬斎両氏の対談がある。

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2011年6月10日 (金)

日本仏教の宗教改革

日本仏教の宗教改革者というと、あるいは親鸞を連想する人が多いかも知れない。しかし、親鸞の前に法然がいた。法然こそ、日本仏教の宗教改革の発端をつくった人ではないだろうか。そして、この二人とキリスト教の宗教改革を対比して考えてみるとおもしろいかも知れない。

親鸞は日本のルターだったのであろうか。そう思う人も多いかも知れない。信仰のみ、信仰義認のルター、悪人正機、絶対他力の親鸞には信仰の形に類似点があろう。カール・バルトも親鸞を知って、キリスト教信仰に近いと驚いていた。しかし、キリスト教(プロテスタント)と日本仏教を比較する時、ルターに対応しているのは法然であろうという見解もあると思う。では、親鸞はどうなのか、と言えば、カルビンに対応しているのである。これには説明が必要であろう。

この着想は、かつて、NHKラジオ深夜便で、ひろさちやさんの講演を聞いたことで思いついた。ひろさんは、法然と親鸞の違いを説明された。法然における「念仏を唱えることの必要」と、親鸞における「いや、それすらも条件ではない」という違いである。

キリスト教の側にも、信仰の必要の指摘と、それが条件となれば、神人協力説、半ペラギウス主義になるとして、その条件性を否定する人たちもいる。信仰の必要では一致しつつも、その見方で、あるいは発展があるのかも知れない。

ひろさんの話を聞きながら、法然と親鸞の違いに、ルターとカルビンの違いを思った。カルビンの予定説の中では、ただ、神の決定に信頼を置く信仰の姿勢がある。親鸞の場合は、阿弥陀仏への絶対的信頼で、それが人間の側の念仏の「行為」を超えているとしたら、そこには予定説のカルビンとの近さも洞察されるのではないだろうか。ルターとカルビンの違い、そんな違いが法然と親鸞の間にも、あるいはあるのかも知れない。

しかし、日本の仏教は、南無阿弥陀仏で終わらなかった。そのあと、南無妙法蓮華経の新たな立場が現れたのである。もし、この違いをキリスト教と対比して考察すれば、南無阿弥陀仏はルター、南無妙法蓮華経はカルビンとして、その類似点を思いつくかも知れない。南無阿弥陀仏は信仰のみ、南無妙法蓮華経は聖書主義の立場である。もちろん、宗教改革は「信仰のみ、聖書のみ」で、共に主張しているとも言えようが、ルターとカルビンの間には強調点の違いがある。

南無妙法蓮華経は、法華経を奉じるという姿勢である。キリスト教の中で聖書主義を強調する信仰が発展していったのは、改革派の中においてではなかったであろうか。特にオランダ改革派教会の歴史の中で、聖書の客観的権威が確立していったことを思うと、何か、日本の日蓮の起こした宗教との類似性を思わされるのである。

親鸞は法然を土台として、その次の段階を見ているとしたら、それはルターの次に登場したカルビンを予想させる。また、南無阿弥陀仏のあとに南無妙法蓮華経が登場したことのつながりを考えるなら、やはり、ここにもルターのあとに登場したカルビンを予想させるものがあるように思う。もちろん、キリスト教的解釈は、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経を対立的にではなく、発展的に解釈しているのである。

法然と親鸞、ルターとカルビンを、それぞれ対応させて考えてみるのも、興味深いのではないだろうか。

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2011年5月22日 (日)

悟りと新生

釈迦の転機は悟りであった。そして、その悟りの説明をして、仏教が生まれた。その時、「悟った」「悟った」と言い続けても、人々には何のことか分からなかったであろう。仏教では、悟りは、いろいろと説明され続けている。
一方、キリスト教は、どうだろうか。仏教の悟りに対応するものをキリスト教に求めるとしたら、それは何であろうか。それは救いであり、新生ではないだろうか。しかし、キリスト教では、その救い、新生をどう説明しているのだろうか。体験を語って証しという。しかし、救い、新生の内容を詳しく説明するという伝統があったであろうか。

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2011年5月15日 (日)

法然と親鸞

日本仏教の宗教改革というと法然を思う。称名念仏の発見・提唱は、ルターの信仰義認の再発見に似ている。再発見というのは、パウロに次いでという意味である。あるいは、その間にアウグスチヌスがいるかも知れない。

法然の次には親鸞が出た。ルターのあとにはカルビンが出た。この系譜にも、何か類似が見えそうである。

ルターの場合、信仰義認は行為義認とは対立していた。行為ではなく信仰という見方であり、信仰が行為になるという発想はなかったのではないだろうか。しかし、その後、「信仰という行為」といった見方も、教会の歴史の中では見受けられる。内村鑑三の文章の中にも、そんな個所があった。

親鸞は絶対他力の言葉でも知られている。そこでは、念仏を唱える行為もまた、必要ないといった見方もなされている。しかし、法然においては、念仏を唱える行為は、必要であったのだろう。それは行為とも見られるが、誰にでもできる行為という意味で、自力救済主義とは厳しく対立していたのであろう。

しかし、親鸞においては、こちら側の行為ではなく、あくまで、阿弥陀仏の本願に焦点をあてている。それは、信仰という「行為」が救いの「条件」といった理解ではなく、神の定め、予定が救いの根拠といったカルビンの予定説の考え方に近いものを感じさせるのである。

法然と親鸞、ルターとカルビン、この対比をしてみたら、あるいは興味深い発見があるかもしれない。あるいは、既に、そんな指摘があるかも知れない。

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2011年5月11日 (水)

生の意味

仏教で四苦という言葉がある。生・老・病・死である。老・病・死が苦であることは容易に分かる。しかし、生はなぜ苦なのだろうか。そして、生は「生まれる」の意味なのか、それとも「生きる」の意味なのだろうか。そんなことを考えていた。

ところで、同じ仏教に四聖諦と言う言葉がある。苦・集・滅・道である。その中での苦諦は「生きることが苦悩である」という意味である。そこでは「生きる」の意味になっている。

であれば、四苦の最初の「生」の意味は「生きる」でいいのではないかと思う。ということは、人間の存在そのものが苦であるという認識である。これはキリスト教で解釈すれば、人間を原罪において認識することになるのかも知れない。

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2011年3月 4日 (金)

四苦

仏教に四苦という言葉がある。生老病死のことであり、これらが苦であるという。

ところで、老病死が苦であることは、誰にでもすぐに分かることであろう。しかし、生がなぜ苦なのだろうか。生と死は対義語であり、共に苦とは分かりにくい。死が苦であるとは了解できるが、その対義語の生も苦というと、どうして、と疑問が生まれる。

しかし、生を「生まれる」という意味にとれば、理解できそうである。生死は瞬間的な苦、老病は漸進的な苦であるとも考えられる。

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2011年2月22日 (火)

宣教の開始

誰にでも、老・病・死はやってくる。その準備をしようではありませんか。宗教の語りかけ、宣教の開始は、そこからなのだと思う。その意味では、釈迦の問題意識は、全宗教の基礎意識なのだと思う。

換言すれば、この意識と、その解決が宗教の課題なのであって、そこからはずれる時、形而上学的思弁に陥る。中世スコラ学が、ともすれば、そのようなものと見られるのは残念ではあるが、比較した時、やはり宗教改革、ルターの意識は、宗教の原点に返るものであったと思う。

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宗教評論家

宗教評論家のひろさちやさんは仏教者である。しかし、他の宗教についても盛んに書いている。最近では、島田裕己さんがキリスト教の解説も書いているのでびっくりした。宗教評論家であれば、全宗教に目配りしなければならなのだろう。歓迎したい。

キリスト教の側からも、こういった宗教評論家が出てほしい。いや、それはあなたが知らないだけだと言われるかも知れない。「あなたはプロテスタントの部分ばかりを見ている、カトリックを見なさい。仏教に造詣の深い神父が多いではないか。特にイエズス会には。しかし、そういう人たちの、自由な評論に接する機会が少ないという問題もあるのかも知れないが、…」

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